食生活のこと、北海道の暮らし、栄養士という職業、読んだ本の記録。生活問題を考えるオフィス(KS企画)の代表が日々考えていることを綴ります。


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2016-12-09 07:00:00

深沢七郎の『みちのくの人形たち』

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深沢七郎の『みちのくの人形たち』

 

 温暖な瀬戸内海地方で生まれ育った二人の洋子さんのひとり平松洋子さんが「総毛立ち」、その平松さんに勧められて読んだ小川洋子さんもまた「びっくり仰天」した本です。

 

 二人の洋子さんが読後感を熱く語り合っている本(『洋子さんの本棚』集英社、2015年)に触発されて、私も手に取りました。

 

 映画化されて話題にもなった『楢山節考』が老人自身による人口調整であるのに対して、本書は新生児を殺める話。語り手の男がもじずりの花を見たくて東北の山奥に出かけますが、そこで奇妙な風習を知ることになります。

 

 「もじずり」とは、百人一首にある「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに」のあの「もじずり」です。

 

 歌は知っていても、多くの人はもじずりの花を見たことがないでしょう。もじずりの地味な花に誘われて、いつのまにか東北の暗くて深い世界に引きずり込まれてしまいました。

 

 その地域で「ダンナさま」と呼ばれる農家に泊めてもらう男。観察力の鋭い男の眼を通して、不気味な違和感を読者に少しずつ与えていきます。その序盤は、食事の膳のメニューにも表われています。以下に一部引用してみましょう。

 

 風呂からあがると奥さんが、

「先生、ほんとに、なにもないですが」

と食事の膳を持ってきてくれた。旦那さまと私の二つの膳である。見ると、丸ぼしの焼いたのとトマトやレタスの皿と、椎茸の煮つけに玉子焼きがある。さっきの山蕗の煮たのものっている。徳利に盃があるが、普通の徳利の二倍以上も大きいからずいぶん入っているらしい。盃も茶碗のように大きい。私は酒はのまないが、旦那さまは酒好きらしい。

 

「夕方おいでになったので、仕度は出来ませんが、あした、山菜をとってきます、ご案内して、山へ採りに行きましょう」

と言うが、私は病気だからとても山など歩けない。

 

(深沢七郎『みちのくの人形たち』中公文庫、1982年、26ページ)

 

 

 ダンナさまの奥さんが「なにもないですが」と言いつつも、食事の膳にはトマトやレタスの皿がある。椎茸の煮付けや玉子焼き、山蕗の煮たのは理解できるのですが、どうしてトマトやレタスの皿なのか。心のスミに何かがひっかかったような気持ちになるのでした。

 

 食事が終わったころ、「急に、産気がきたようです」と若い青年がやって来ます。奥さんが助産婦なのかと思いきや、青年は大きな屏風を借りに来たのでした。

 

 お産をするときの「逆さ屏風」の風習を知ったり、両腕の無い仏さまや人形を見たりしながら、東北の農村事情が次第にわかってきます。

 

 うぐいすがときどき啼きます。裏のほうでけたたましく啼くうぐいすの鋭い声は、屏風のかげの産湯の中で押さえつけられ産声をあげることができなかった赤ん坊の叫び声のようにも感じられるのでした。

 

 ダンナさまの家の子供たちの描写も異様な印象を与えます。二人の中学生が「ふたりとも両肘を、ぴたりと、横腹にひきつけて立っている」様子は、両腕を切り落とした先祖の仏さまの姿と重なります。まさに「みちのくの人形たち」です。

 

 平松洋子さんが総毛立つと感じたことにも納得するのでした。

 

 ラストシーンは、浄瑠璃の“いろは送り”です。導入部分からの不穏な感触が、最後の一行で収まるところに収まったように思える見事なラストです。

 

 晴れの国、岡山で生まれ育った人間からみれば、知識として頭で理解していても東北地方の生活の厳しさを実感することはそう簡単なことではありません。

 

 しかし本書は、すとんと納得してしまう。そこに文学の力がある。そう思わずにはいられない一冊でした。

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2016-12-02 07:00:00

青山ゆみこの『人生最後のご馳走』

テーマ:栄養士・管理栄養士

青山ゆみこの『人生最後のご馳走』

 

 末期がんで余命わずか3週間という状態にもし自分がなったとき、ホスピスで提供してくれる「人生最後のご馳走」が自分の希望通りの食事だったら、どんなにうれしいでしょうか。

 

 たとえ食べることができなくても、食べたい食事の話を聞いてくれ、自分のためだけに作ってくれる食事にありがたさを感じ、穏やかな最期を迎えることができるかもしれません。

 

 そんな夢のような食事を提供してくれるホスピスが日本にあります。淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院です。本書は、そのホスピスで提供されるリクエスト食を取材した本。末期がんの患者14名がリクエストした食事と、患者を支える管理栄養士、調理師、看護師などのスタッフの物語です。

 

 ホスピス病院でリクエスト食を始めたのは、管理栄養士の大谷幸子さん。大谷さんは日本でNST(栄養サポートチーム)を立ち上げた草分け的存在です。

 

 夫を肝臓がんで亡くした経験をもつ大谷さんは、ホスピスの患者が食べられる状態のときに可能な限り希望を叶えてあげたいという願いからリクエスト食を始めました。患者自身が希望する食事を聞き取って、週に一度個別に提供しています。

 

 大谷さんは、食べられる状態にはない入院患者であっても、食べたいという意思のある方の思いは大切にするようにしているといいます。大谷さんのリクエスト食への考え方について、以下に一部引用してみましょう。

 

 

 大谷さんが食を通してのケアでもっとも大切にしているのは、患者さんとのコミュニケーションだという。リクエスト食では、患者さんから栄養士を通して調理師に希望献立が出され、それを受けた調理師が患者さんの思いを汲んで料理を提供するという、病院から患者さんへの一方通行ではない双方向のコミュニケーションが生まれる。そのことでもまた、作り手のあたたかい気配を感じる、自分だけの特別な食事になるのだという。

 

また、このホスピスでは普段の食事も6種類から選べる選択式を採っていて、リクエスト食以外にも週2回の聞き取りがあるため、栄養士は少なくとも週に3度は患者さんのベッドサイドを訪れる機会を持っている。頻繁に顔を合わせ食の会話がはずむことで、看護師と患者さんとはまた異なるコミュニケーションが生まれる。

 

(青山ゆみこ『人生最後のご馳走』幻冬舎、2015年、47ページ)

 

 

 本書は、文章の合間にリクエスト食、リクエスト食を囲んでの記念スナップ、仕事中のスタッフ、病院内の様子などの写真が収められ、視覚を通してもリクエスト食がどんな環境で提供されているのかが伝わります。

 

 それにしてもリクエスト食の写真はお見事です。カラリと揚がった天ぷら盛り合わせ、レストランで出されるようなフィレ肉ステーキ、シャコ3尾をすし飯の上に山盛りにして中心部を海苔で巻いているシャコの握り鮨。こんな豪華なシャコの握りは今まで見たことも食べたこともありません。

 

 病院食ではおよそ考えられない、すき焼き鍋も出てきます。患者のどんなリクエストにも応えますよ、と作る側である調理師の気概が感じられる写真ばかりです。

 

 リクエスト食を支えるのは管理栄養士だけではありません。看護師、調理師、医師らの患者を支える体制がしっかりと整っていることも本書は教えてくれます。

 

 あの有名な医師が作ったキリスト教系の病院で、優秀な管理栄養士や調理師がいる病院だからこそ実現できた事例、と特別視しないでほしい。

 

 「人生最後のご馳走」に自分は何を食べたいか。親しい人の「人生最後のご馳走」をどうしてあげたいか。末期がんでなくても、在宅で看取るにしても、今は健康であっても、「人生最後のご馳走」をどうするか、どうしてあげたいかを考える、素材提供をしてくれる一冊です。

 

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2016-11-25 07:00:00

津村記久子の『ワーカーズ・ダイジェスト』

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津村記久子の『ワーカーズ・ダイジェスト』

 

 30代の働く女性に是非とも手に取ってほしい一冊。

 

 大きな事件も起こりません。ドラマチックな展開でもありません。人も死にません。普通に働く男女が主人公の地味な小説です。それだけにリアリティがあって共感できるところ満載の本です。

 

 大阪のデザイン会社で働く奈加子(なかこ)は仕事の打ち合わせで、東京の建設会社に勤める重信と出会います。二人は偶然にも同じ佐藤という姓で、話をしているうちに生年月日まで同じであることがわかります。

 

 偶然過ぎる二人の出会いがロマンスに発展していく恋愛小説、と最初は思ったのですが、そうではありません。読者がじれったさを感じるほど、二人が再会するのは小説の後半部分なのです。

 

 奈加子は、学生時代からつきあっていた恋人と別れたばかり、職場の人間関係にもわずらわしさを感じる日々を送っています。一方、重信も急に大阪支社への転勤を命じられますが、栄転ではありません。

 

 食べる場面がたくさんあって、日常の生活感が得られます。たとえば、奈加子と重信が打ち合わせで会って別れたすぐあとに、偶然にもまたカレー屋で一緒になってしまいます。気まずさを感じつつも、結局は言葉を交わしながらカレーを食べます。

 

 こんな感じ。以下、一部を引用しましょう。

 

 

「なすはいいです。大人になってから好きになった。うちの母親はなんでも甘辛くするのが好きで、なすは田楽とか食いにくいもんでばっかり出してきたんで子供の頃は嫌いやったけど、トマトソースのスパゲティに入ってるのを食った時に、こんな「うまいもんやったんやってびっくりした」

 

佐藤氏はスプーンを動かして、おそらく白米とルウを自分なりに理想的なバランスに整えた区画を作りながら、とつとつと語る。

 

「うちの親もそうです。何でも甘辛い。ああいう味付け、ほんとは難しいですよね」

 

「うん、すき焼きかってなんとなくでは作れんですしね。ああでもうちの母親、すき焼きだけはうまく作ったかなあ」

 

肉じゃがは甘すぎてまずかった、と佐藤氏はぼんやり上を見上げながらスプーンを口に運ぶ。

 

(津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』集英社文庫、2014年、42ページ)

 

 

 カレーの食べ方やちょっとした会話を通して、「この男性はわりと、自分と同じぐらいの生活水準で暮らしてきたのだろう、という直感的な印象」を奈加子は持つのです。

 

 自分と相性がいいか、一緒に暮らしていけそうな相手かどうか。食事に対する考え方や食べものの好みは重要なものさしです。食べる姿勢が生きる姿勢にもつながることを著者は感じとっているのかも知れません。

 

 それを象徴的に表しているのが、スパカツ。重信が仕事帰りに立ち寄った、スーパーの裏の古い洋食屋で食べるスパカツです。

 

 スパゲティの上にトンカツを載せてドミグラスソースのようなものをかける、いわばB級グルメの代表のような料理。その味に惹かれた重信は、本屋で手に取ったグルメ本のなかのスパカツ記事を読むことになります。

 

 「今まで食べた記憶がなくても、口にした瞬間、自分の中で歴史の道筋が刻まれる味」これは奈加子が書いた文章で、やっと重信と奈加子がつながろうとしているのでした。

 

 それにしても、「自分の中で歴史の道筋が刻まれる」とはうまい。こんな表現ができる著者に脱帽したのでした。

 

 著者は、働くこと、仕事に対する姿勢への思い入れが特に強い小説家だと思います。本書に栄養士は登場しませんが、働く意味や仕事に向き合う姿勢を教えてくれる良書といえるでしょう。

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2016-11-18 07:00:00

岩田健太郎の『食べ物のことはからだに訊け! 健康情報にだまされるな』

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岩田健太郎の『食べ物のことはからだに訊け! 健康情報にだまされるな』

 

 健康「トンデモ」情報に振り回されることなく、自分のセンサーを磨き、からだに訊いて判断しなさいと教える新書。

 

 アマゾンの書評コメントを読む限り、評価は両極端に分かれます。「良書」と高評価をする読者がいる一方で、「悲しい」、「だめだこりゃ」とそのひどさを書かずにはいられないコメントもあります。正直なところ私は後者に近い感想をもちました。

 

 今回は何が問題なのか。低評価につながる理由は何か。それらの読みどころを探っていきたいと思います。

 

 まずは、著者のスタンスです。本書執筆のきっかけは、「いわゆる」糖質制限食にあったと著者は「はじめに」に書いています。著者の専門は感染症ですが内科医でもありますから、医者の立場で専門家としての評価をしてくれるのだと読者は期待します。

 

 ところが、書いている内容はとても医者のスタンスとは思えない。糖質制限を実際にやってみた自分の体験、ご飯をよくおかわりをする家人の例など身近な例を挙げていますが、何の説得力もない。

 

 内科医だと名乗っているだけに、かえって不信感を抱いてしまいました。著者の批判する健康「トンデモ」本と本書はいったいどこが異なるのでしょうか。

 

 次に気になったのは、杜撰な引用です。糖質制限食を取り上げるからには糖質制限食に関するすべての文献に目を通していると思ったのですが、どうやら話題になった本をさらりと読んでいるにすぎない、と疑いたくなる箇所がいくつかありました。

 

 本の引用がたくさんあって、よく調べて根拠も確かだという印象を読者に一見与えます。しかし実のところ、自分の都合の良いところだけ用いる高等テクニックを駆使しているのではと思えるのです。それだけにいっそう罪深い。

 

 糖質制限食は、治療食として研究が進められ、改良されてきています。江部康二の活字になっているものを追いかければ、その変化はわかります。

 

 病院の給食部と連携して進化してきてもいます。治療食としての糖質制限食を他の健康「トンデモ」本と並べて論じるところに、江部らの推奨する糖質制限食までもが「トンデモ」情報のひとつであると誤解されかねない。そんな印象を読者に与えているのです。

 

 そして、最後は「どっちでもいいじゃん」という結論。これではまったく拍子抜けしてしまいます。以下に一部引用します。

 

そろそろ、結論です。糖質制限によって長生きできる、という保証は(少なくとも現時点のデータでは)なさそうです。かといって、糖質制限をするとバタバタ早死にする、というわけでもなさそうです。長期的には「どっちでもいいじゃん」ということになります。

 

さて、糖質制限は長生きだけを目標に行われているわけではありません。ダイエット目的に行うこともあれば、病気の治療に、例えば糖尿病の治療の一助として行うこともあるでしょう。

 

とすればです。一番良いのは「自分で試して確認してみる」ことです。

 

(岩田健太郎『食べ物のことはからだに訊け! 健康情報にだまされるな』ちくま新書、2015年、035~036ページ)

 

 

 この続きにはこんな文章も出てきます。「ダイエットにしろ糖尿病にしろ、すぐに結論をつける必要はないのです。糖尿病は2、3日で完治しなければならない病気ではありません(完治しませんし)。」(037ページ)

 

 糖尿病患者や糖尿病に関する医療従事者でなくても、不快さを通り越してあきれてしまったのでありました。

 

 アマゾンには「ブックオフ一直線」というコメントもありましたが、本の深読みを強いられる絶好の教科書ととらえることもできます。

 

 読者の読解力を鍛えてくれるのです。健康「トンデモ」本の特徴を巧妙な表現力でまとめている上級者向きの一冊、といっておきましょう。

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2016-11-11 07:00:00

柏井壽の『京料理の迷宮 奥の奥まで味わう』

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柏井壽の『京料理の迷宮 奥の奥まで味わう』

 

 京都生まれの京都育ち、生粋の京都人である著者が京料理の奥深さを語った新書です。

 

 ひと言でいえば、テレビや婦人雑誌などが取り上げる、通り一遍の「京料理」の氾濫を苦々しく感じており、ほんまもんの京料理を観光客にも知ってほしいし、提供する側の姿勢も正してほしいと願う京都愛に満ち満ちている本といえます。

 

 実名で登場する料理屋もたくさんありますが、アルファベットで書き記した店について厳しくも温かく書いているところが本書の大きな魅力のひとつ、と思えました。

 

 たとえば、祇園にある割烹A。以下に一部を引用します。

 

 カウンターの後ろには認定証が誇らしげに鎮座している。おまかせコースを食べていて、「京湯葉と京野菜の炊き合わせです」

と出されたのを見て驚いた。

 

 汲(く)み上げ湯葉と、洋人参、大根、しめじ、が蓋付き鉢にこんもりと盛られ、酢橘(すだち)の輪切りが添えられている。一体どれが京野菜なの。そう尋ねると待ってましたとばかりにカウンターの向こうから主人が誇らしげに答えた。

 

「うちの野菜は全部上賀茂のお百姓さんに頼んで直(じか)に届けて貰うてるんですわ。せやさかいこれ皆京野菜ですねん」

 

あきれ果てて笑うしかなかったが、隣席の東京から来たと思(おぼ)しきご婦人方は、

「やっぱり京野菜は美味しいわねぇ」

と歓声を上げていらした。

 

(柏井壽『京料理の迷宮 奥の奥まで味わう』光文社新書、2002年、47ページ)

 

 

 認定証とは、「協会が指定する旬の京野菜を常時使用し、それらを使用する料理を常時提供すること」と、京都ふるさと産品協会なる社団法人が要件を定めているもの。

 

 著者は、京野菜が何たるかを知らない主人の勉強不足を嘆いておられるのです。

 

 問題ありの有名店の話は続きます。老舗料亭Bでは、蒔絵の図柄が施された趣あるお椀を使っていながら蓋と身が完全にずれていたこと。

 

 見込みに一行詩が書かれた図柄は食べ終えて見ると字がさかさまになっていて、同席者ともどもショックを受けた話です。建物や庭の手入れが行き届いているだけに、器を無造作に扱う料理人の姿勢にがっかりしたのでしょう。

 

 また、客が器を褒めたら器自慢を延々と始めた木屋町の割烹Dの板前の態度。予約電話を入れた5分後に事情が変わりキャンセルしたところ全額のキャンセル料を請求してきた鴨川近くのHの話。

 

 どの話も著者が実際に見聞きしたご自分の体験に基づいていますから説得力があるのです。

 

 アルファベット順に割烹AからOの蕎麦屋まで全部で15の料理店の問題点を指摘します。

 

 私のような読者にはどこの何という店なのかまったく見当が付きませんが、当事者が読めば自分の店だとわかるはず。今後の店の運営に役立つことを著者は願っています。

 

 本書に出てくるのは有名老舗料亭ばかりではありません。京都市民がふだん利用している店もたくさん出てきます。第六章の京都人の「普段食べ」では、著者自身の昼めしスケジュールに合わせつつ、ご近所の料理店を紹介しています。

 

 著者の本業は歯科医。京都市北区で歯科医院を開業していますから、北山通りや北大路界隈の食べもの屋には詳しい。

 

 相生餅食堂の鍋焼きうどん、グリルはせがわのハンバーグ、みなとや食堂のオムライスなど。学生時代このあたりに住んでいた私は、賀茂川のなつかしい風景とともに当時利用していた安い食堂や喫茶店の名前を思い出していたのでした。

 

 新書らしい軽さ(決して皮肉ではありません)で、「奥の奥まで味わう」ことはむずかしいかもしれませんが、「京料理の迷宮」の入り口には確実に立てるでしょう。

 

 巻末には、本書に登場した店の名前と住所が章ごとに載っています。ありきたりの京都グルメガイド本よりも、この一冊を片手に京都の街を歩いてみることを薦めます。

 

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2016-11-04 07:00:00

阿古真理の『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』

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阿古真理の『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』

 

 本書は、テレビや雑誌で活躍する多くの料理研究家たち、特に小林カツ代と栗原はるみにスポットをあてた新書です。

 

 料理研究家と呼ばれる人びとの歴史がそのまま日本人の暮らしを映し出しているという視点から書かれています。江上トミ、飯田深雪から料理研究家二世の時代まで、その流れや特徴を俯瞰することができる労作といえます。

 

 サブタイトルには「料理研究家とその時代」とあり、小林カツ代と栗原はるみだけを取り上げているわけではありません。

 

 しかし、小林カツ代と栗原はるみを比較しながら分析していくところに本書のおもしろさが際立っていました。だから二人の名前をタイトルにしたのは間違いではなかったのでしょう。

 

 まず冒頭部分には、本書のなかで取り上げた料理研究家を一覧できるマトリックスが載っています。このマトリックスこそ、一番のウリと言えます。

 

 創作派と本格派をタテ軸に、ハレとケをヨコ軸にして料理研究家の名前を落としていて、名前の下には生没年が付記されていますから、どの時代に活躍した料理研究家なのかも一目瞭然。

 

 このマトリックス一枚を作るのに、著者は、どれだけたくさんの彼・彼女らが著した本やレシピ本を読み込んでいったのか、苦労の一端が伝わります。

 

 小林カツ代と栗原はるみだけではないと言いつつも、やはり小林カツ代と栗原はるみを比較検討した部分が読ませどころです。

 

 一部を以下に引用してみましょう。

 

 十歳年長の小林カツ代は、プロセスを大胆に変えた時短レシピを発表したが、基本的に味が想像できる安心感がある。対して栗原は、味に冒険がある。洋食や和食というジャンル自体にこだわらない。

 

 小林は、西洋料理、中華料理、日本料理とジャンル分けされた料理を外で食べてきたベースがある。対して栗原は、実家で和食を、結婚相手の家で洋食をと、食べてきたものが家庭料理中心だったため、ジャンルにこだわりがなかったと思われる。

 

 小林がデビューした時代は、洋食や中華へのアレンジが求められていたが、栗原が活躍を始めた一九八〇~九〇年代はグルメの時代で、本格的な中華の味を人々が知り、イタリア料理とフランス料理が違うことを知った。加えて、無国籍料理が外食で流行り、『オレンジページ』などが率先して、味つけでバリエーションを出す料理の人気を牽引していた。

 

(阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』新潮新書、2015年、143ページ)

 

 

 二人の比較はまだまだ続きます。著者は栗原はるみを「熱狂的なファンをたくさん持つタレントとしての自覚」があって「あたかもそれは皆に愛されるアイドル」のような存在としてとらえています。

 

 それに対して、小林カツ代は「家庭料理の常識に挑戦し続けたアジテーター」であり、「常識をくつがえすような価値観を提示するアーティストでもあった」と述べています。

 

 プライベートな出来事(結婚や離婚、子どものこと)にも触れて、対照的な二人の料理研究家の特徴をつかもうとしています。

 

 新書らしい軽さ(決して皮肉ではありません)で、気楽に読みつつも料理研究家たちの歴史を概観できる一冊といえます。

 

 どうしてあの人やこの人が登場しないのか、取り上げられていない料理研究家のことを持ち出してはいけません。著者にゆだねるのではなく、本書を手がかりにして読者自身が考える、その楽しみを与えてくれる本といえます。

 

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2016-10-29 07:00:00

秋山徳蔵の『味 天皇の料理番が語る昭和』

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秋山徳蔵の『味 天皇の料理番が語る昭和』

 

 今回は、前回紹介した「天皇の料理番」こと秋山徳蔵自身が執筆した本を取り上げます。

 

 本書の序文を書いたのは吉川英治です。吉川英治は秋山徳蔵の隣家に住んでいて親しい友人のひとりでした。

 

「いつも土から掘りたての“新ジャガ”みたいな顔いろをして、料理といふ自分の仕事と、人間としての生命を愉しむことに、いつもピチピチと活きのいゝ語調と感覚をもつて、およそこの世に倦むことを知らずに暮らしている老童子である」と秋山徳蔵のことをこう讃えています。

 

 本書の前半は、杉森久英が『天皇の料理番』で書いたエピソードや体験談などがたくさん盛り込まれていました。後半には、『天皇の料理番』のなかでは紹介しきれなかったさまざまな話が出てきます。

 

 一般市民が簡単に知ることができない宮中の話ばかりではありません。プロの料理人だけでなく家庭料理を作るうえでヒントになる話もあります。料理の真髄とも思える含蓄ある文章にも惹かれました。

 

 なかでも、世界中を歩き回った著者が感じとった外国の食事情がおもしろい。私が特に印象に残ったのは、中国料理の評価です。

 

 西洋料理の一流の料理人が、中国料理をどうとらえているのか、興味がありました。実際に著者は、溥儀が来日したときには“天皇の料理番”として関わっており、上海や北京にも訪問しています。それらの体験を元にした評価ですから、なおさら説得力があるのです。

 

「中国の謎」というタイトルをつけた文章のなかから、その一部を紹介しましょう。

 

とにかく、中国料理の中枢をなすものは乾物だと考えてよい。その他、一品一品を見れば、舌と腹を同時に満足させるに足る料理が多い。近頃餃子などの点心類を客の前でつくって食べさせる店が繁昌しているのは、ゆえあることである。

 

食品の種類の多いこと、範囲の広いこと、奇抜なものの多いこと、これも世界に冠たるものであろう。

 

例を獣類の身体の各部にとれば、内臓はもちろん、舌、のど、鼻の軟骨、唇、骨、ひづめ、尾、えな、はらご、よだれ、血、尿、便、睾丸、陰茎まで、あますところなく食用にする。

 

へびを食い、むかでを食い、もぐらを食う。ねずみを食い、猫を食い、犬を食う。

 

広東の街を歩けば、小犬や猫を入れた籠をてんびんぼうで担いで、売り歩いているのによく出会う。

 

妊娠しているねずみの腹を割いて胎児を出し、これを蜜で二三日飼い、生きたままを食う。噛めば、チュッと泣くというが、これは試みたことがない。 

 

(秋山徳蔵『味 天皇の料理番が語る昭和』中公文庫、2005年、117ページ)

 

 

 噛めばチュッと泣くねずみの胎児は食べたことがない。という秋山徳蔵ですから、世界中を回ってどれだけたくさんの珍しい食材や料理を口にしてきたのか、容易に想像できます。

 

 アメリカの食事のまずさについても書いています。「敗戦以来、わが国の洋食が非常に混乱してきたのは、滔々たるアメリカ的味覚の横行のおかげである」とズバリ書くことができるのは秋山徳蔵しかいない、とさえ思えてくるのでした。

 

 本書が刊行されたのは1955(昭和30)年で、その2年後には『舌 天皇の料理番が語る寄食珍味』も出版されました。どちらも今では現代仮名づかいに直した文庫本になっていて、読みやすい。『味』と『舌』とセットで薦めたい二冊です。

 

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2016-10-22 07:00:00

杉森久英の『天皇の料理番』

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杉森久英の『天皇の料理番』

 

 2015年までに三度もテレビドラマになった原作本です。最初のテレビドラマ(1980年)は堺正章が、2015年は佐藤健が主演でした。

 

  大量のじゃがいもの皮を剥きシャトー切りやジュリアンヌといった切り方にしていくシーンは本当に佐藤健自身が切っており、相当練習したと思わせます。見事な庖丁さばきや実際に作られたレシピに従った料理の再現に映像の力を感じずにはいられません。映像の素晴らしさを認めつつも、活字を通して得られる魅力もあると思い、今回取り上げる次第です。

 

  本書は、その「天皇の料理番」と呼ばれる実在の料理人秋山徳蔵をモデルにした伝記小説。「小さいときから、強情な子だった」という書き出しで始まります。

 

  子どもの頃から負けん気が強く素早く動き回る活発な少年が料理の道に目覚め、その道をきわめたくて東京に出て修業し、フランス語を習い、パリ留学までして、のちに宮内省に入り日本一の料理人になるという物語です。

 

  主人公の名前は秋沢篤蔵。秋山徳蔵と似た名前ですが、実在モデルと異なる名前にしていることで史実とは異なるフィクションであることを読者に示しています。料理ひとすじだけでなく女性関係のエピソードなどが盛り込まれ、読者を退屈させません。

 

  まだ西洋料理が普及していない時代にカツレツを食べたことがきっかけで料理の道を究めていくストーリーは、主人公の眼と舌を通して日本における西洋料理の草創期を知ることができます。

 

  明治・大正・昭和と料理人の社会的地位がそれほど高くはない時代背景も丹念に描かれています。日本の封建的で厳しい料理人の世界に対して西洋の料理人の世界がリベラルであること、黄色人種への偏見があったヨーロッパでの修業の日々、主人公が受けた差別に関するさまざまな出来事も取り入れられています。西洋料理を日本に取り入れ、料理の水準を欧米並みにしていった主人公の苦労や努力がたっぷり描かれています。

 

  食べることや料理に興味関心のある若い世代が、明治期の先人の歩んだ足跡を知る絶好の小説といえるでしょう。料理に対する主人公の気概も随所にあらわれています。たとえば、こんな文章。以下に一部引用しましょう。

 

料理の修業に欠くことのできないことは、メニューの研究である。いつまでもペテ公か、人に使われる下っ端のコックばかりやっているならともかく、いまに一流のコックといわれるようになり、大きな晩餐会でもやらされるとき、必要なのは、献立てをどう作るかということである。

 

料理は綜合(そうごう)芸術である。ひとつひとつの料理がよくできていても、取り合わせがまちがっていては、完璧とはいえない。必要なのは、変化とバランスである。

 

献立ての作製に熟達するには、ほかの人の作った料理をよく研究することが大事である。それには、あらゆる宴会に出かけて、食べてみるのが一番いいのだろうけれど、招かれもしない場所へノコノコ出かけるわけにゆかないし、人間の胃袋の大きさには限りがあって、あらゆる料理をつめ込むわけにはゆかない。

 

もっとも、料理人もいい加減場数を踏めば、いちいち食ってみなくても、名前を聞いただけで、大体の想像がつくのだけれど、献立て全体の構成は、現場の者には、なかなかわからない。

 

(杉森久英『天皇の料理番 上』集英社文庫、2015年、359ページ)

 

 

 献立作りがいかに大事なことかをよくあらわしています。探究心と向上心のかたまりでもあった主人公は、グラン・シェフ(料理長)が大事にしていたノートをこっそりと盗み出して見てしまうのでした。

 

 本書は、テレビドラマ(2015年)の脚本と異なるところが多々あります。ドラマで描き切れなかった話もたくさん出てきます。ドラマを見た人も見ていない人も是非読んでほしい。そんな一冊です。

 

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2016-10-15 07:00:00

嵐山光三郎の『ごはん通』

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98回(2015年7月1日号)嵐山光三郎の『ごはん通』

 

 本書は、ごはんに関することを歴史的視点で語り、文化的要素を取り入れ、調理方法まで紹介するというごはん全般に関わる読み物です。

 

  アカデミックな面もあり、おふざけ調のところも感じられ、気楽に読もうと思えば寝転がって読めるし、深く知りたいと思えば、その糸口を示してくれる。そんな不思議な本です。

 

  何といってもおもしろいのは、本山萩舟(もとやま・てきしゅう)の『飲食事典』とコラボしているところ。それゆえに今回ここに取り上げようと考えた次第です。

 

  『飲食事典』は195812月に平凡社から出版された、重さ1.6キロのじつに重たい事典です。本山萩舟(18811958)が一人で30年がかりでまとめた労作。残念なことに萩舟は同年(1958年)10月に『飲食事典』の顔を見ることなく亡くなりました。

 

  今やその『飲食事典』の存在を知る人は少なくなりました。がしかし、嵐山光三郎は『飲食事典』に収められているごはん関係の項目をコンパクトに紹介してくれます。

 

  あの重い『飲食事典』片手にごはん通が語り、『飲食事典』の引用を通して、江戸・明治時代から平成に至るまでの橋渡しをしてくれているようにも思えました。

 

  「すし」の項を取り上げてみましょう。「すしを食う心得」から始まり、なれずし、早ずし、海苔巻き、いなりずし、ばらずし、すしの未来と展開していきます。

 

 

すしは時代とともに変化し生きている。繁盛する店はいずれも新風だ。やれ江戸前にこだわるだの、握りの小ぶりなのはゲスだのといった講釈は客より店のほうにあり、講釈も味のうちである。うまければ店は繁盛し、まずければつぶれる。旬の魚をいかに仕込んですばやく握るかによって味が変わる。コハダの酢のしめ方、かんぴょうの煮方、アナゴの下味ひとつにも店による秘伝の技法がある。そこが職人の腕の見せどころで、客もつい知ったかぶりの講釈をしたくなり、そういう客は店に嫌われる。握り方、下味のつけ方は各地方によって異なり、ひとことで江戸前といっても、要はすし職人と気分ひとつにかかっている。値段もしかりである。

 

(嵐山光三郎『ごはん通』平凡社、2000年、81ページ)

 

  手ですしをつまむのは東京流で、それは「屋台料理の延長にあって、手でつまむのは、下品であると関西人は見下している風潮がある」と述べて、『飲食事典』「すし(鮓・鮨)」の項を引用していきます。

 

  「ニギリズシの食い方はまず拇(おや)指と中指とでつまみあげ、持上げる途中に食(ひとさし)指で回して魚の附いた方を下に向け、(中略)ただ崩さぬように軽くつまむことである」と中間を略したくなるほど長々と萩舟の記述を紹介していきます。

 

  続いて「おまんずし(阿万鮓)」、「ふなずし(鮒鮓)」、「すずめずし(雀鮓)」と『飲食事典』からの引用をはさみながら、鮨屋での客の心得や早ずしの地域性を説明します。

 

  最後の「鉄火巻」の項目が短い理由は、「著者本山萩舟翁が嫌いな食べ物は、ちょっとしか書かない」らしく、それがまた『飲食事典』のいいところだと嵐山光三郎は考えているのでした。

 

  嵐山光三郎の文章に注釈をつけて『飲食事典』など引用していますから、読みにくさを感じる読者がいるかもしれません。しかし、それを補っているのが著者自身の手による豊富なイラストです。

 

  最初のイラストはバケツ弁当。ブリキのバケツに白飯を入れて真ん中にタクアン一本が丸のまま突き刺してあるという豪快なイラストです。この強烈なイラストに打ちのめされつつも、ページをめくって次々と紹介される注釈つきのイラストに読者の理解が一層深まること間違いなしです。

 

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2016-10-08 07:00:00

ねじめ正一の『我、食に本気なり』

テーマ:栄養士・管理栄養士

97回(2015年6月1日号)ねじめ正一の『我、食に本気なり』

 

 「中央線高円寺の乾物屋の倅(せがれ)として生まれたおかげで、鰹節(かつおぶし)とは兄弟みたいなものである」と書き出す、1948(昭和23)年生まれの著者のエッセイです。

 

 子どもの頃に食べた「寒天」には、Sさんという同級生の女の子のお誕生会で出された寒天の話が出てきます。それはSさんのお母さんがていねいに作ったミルク羹。家業と家事に追われるねじめ少年のばあさんが作る寒天とは大違いなのです。

 

 ねじめ少年は、手間と時間をかけたSさんのミルク羹に教養を感じますが、毎日食べたい寒天は「ときどき舌に固いものが残る」ばあさんの寒天なのでした。

 

 結婚してから妻のそうめんのゆで方にショックを受ける「そうめん」も心に残りました。兵庫県出身の妻は、播州そうめんは「コシが強いから、ひと晩おいても大丈夫」と大量にゆでて次の日も食べるのです。食べる分だけゆでた方がおいしいに決まっているのですが、なかなか妻には言い出せません。

 

 食べものへの思いは家族の情景とつながっています。さらにまた、商店街のなかで生まれ育った著者ですから、地域活性の視点で書かれているエッセイが多いのも特徴のひとつといえましょう。

 

 たとえば、「チャーハン」のくだり。ねじめ少年は、近所の大村食堂のチャーハンが大好きなのです。以下に父親との会話の一部を引用します。

 

 

「大村食堂みたいなチャーハン作ってよ」

 

私は文句を言った。すると父親は「バカだな」と言って笑うのだ。

 

「おばあちゃんやお母さんに大村食堂みたいなチャーハンが作れたら、大村食堂が潰(つぶ)れちゃうよ」

 

「潰れてもいいから作ってよ」

 

「ますますバカだな、こいつは。大村食堂が潰れたら、大村食堂のチャーハンも食べられなくなるじゃないか」

 

父親に言われて、それもそうかと納得してしまう私は純真というよりトロい子供であったが、祖母はそれ以後ひと手間かけ、出来上がったチャーハンをいったん茶碗(ちゃわん)によそってフライ返しでギュッと押しつけてから、裏返しに皿に盛ってくれるようになった。

 

しかし、茶碗にぎゅう詰めにされたチャーハンはスプーンではらりと崩れるどころか、巨大な団子状に固まって、前より一層まずいのであった。

 

(ねじめ正一『我、食に本気なり』小学館、2009年、155ページ)

 

 

 肉屋のコウちゃんが作るソーセージにしても大村食堂のチャーハンにしても、地元商店街への応援エッセイとなっています。全国どこに行っても似たようなショッピングモールが郊外にできて、昔ながらの商店街はさびれていく一方です。

 

  そんな時代になっているからこそ、地域社会の活性化にまで広げた食の視点が斬新に感じられるのです。

 

  コノワタ、ホヤ、ウルカが苦手のねじめ氏が「カラスミを一本丸ごとバナナ持ちしてバクバク食べてみたい」とまで書けば、カラスミの味をまだ知らない私は、その高価な珍味を買ってみたい誘惑にかられます。

 

  詩の教室に押しかけて先生と一緒に食べた懐中じるこの話は、著者でなくても泣かされます。次に懐中じるこを食べるときには、この話を思い出すことでしょう。

 

  食に本気で向き合う詩人のエッセイは、庶民的な食べものを通して家族や地域社会のつながりの大切さを教えてくれます。

 

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