書評(Ⅰ):西條剛央『チームの力 構造構成主義による"新"組織論』 | ksatonakanohitoのブログ

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西條剛央『チームの力 構造構成主義による"新"組織論』

(ちくま書房、2015年)  http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8A%9B-%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E2%80%9D%E6%96%B0%E2%80%9D%E7%B5%84%E7%B9%94%E8%AB%96-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E6%A2%9D-%E5%89%9B%E5%A4%AE/dp/4480068309





以下、本文の章立てに従い、評言をまとめます。普通の書評ならば著作全体の概要と総評を述べるべきなのでしょうが、(Ⅲ)の最後に記した様な事情で、第一稿から改訂をする気力を失ってしまいました。ぶっきらぼうな物言いに終始してしまったこと、どうかご寛恕の程を。



序章 『進撃の巨人』の"巨人"とは何か




序章から既に本文の叙述が迷走している。



例えば「巨大な組織はパワーがあるが動きが鈍い」(17)と書いておきながら、その舌の根の乾かないうちに、自分の作った「「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は3000人以上を擁する日本最大の総合支援組織に発展」(19)したと宣伝する。


曖昧な表現も目立つ。各種支援の題目だけを列挙し、それらの成果を数値的、定量的に正確に示すことなく、「既存の組織や団体が果たせなかった実効性の高い大規模支援を実現した」(19)と語る著者のことを、読者は何を根拠として信頼すれば良いのか?それに代えて、A賞やB賞を受賞しました!とだけ自賛するわけだから、これはひどい。(19)



第1章 なぜ未曾有のチームができたのか



この章は、本文全体のまとめ。ふんばろう東日本支援プロジェクトの設立経緯についても若干触れられている。ここでは著者の紹介する過去の支援活動とその方法論について、批判と苦言を呈しておきたい。


著者は数々の個別プロジェクトを立ち上げて支援活動として実践したと語るが、その例示として挙げる「大規模支援」たる「家電プロジェクト」の実態はどうであったのか。これは、被災者に向けて扇風機等の家電類を全国からの好意で集めて、直接配付しようとしたものである。



具体的な地名を出すと、宮城県石巻市内で彼らが配ろうとした家電の現物が当日まで届かずに現地支援団体のOが代わりにそれらを急遽手配して配っていたという事実があった。それがふんばろう東日本支援プロジェクトの支援実績だと言われたとしたら、関係者の反応は、腹を抱えて嘲笑するか、激怒するか、その二択しかあるまい。


このような物資支援を行う際には、被災者に向けて直送する必要があるが、そのために著者は次のように語る。



「現地で必要な人に配ってくれるキーパーソンと組み、ツイッターの拡散力、ホームページの制御力、宅配便という既存のインフラを活用すること」(27)でふんばろう東日本支援プロジェクトはこれを実現したと著者は説く。


しかし、この一文からは著者が持つ被災地支援の状況認識の甘さのみが見える。著者が言う「現地のキーパーソン」もまた一人の被災者であることを考慮もしない。支援情報を独占する少数の住民が偏在することで地域内の支援格差を助長しかねないことへの配慮も全く無い。更に、ネットの力を過信し、デマ拡散の温床となることも意識の外である。抑もの問題として、災害時に宅配システムが壊滅していたら、著者はどうしたのであろうか?


著者のあまりにも楽観的態度には目を疑うばかりである。避難所に向けて物資を支援するには、ツイッターで情報を拡散して「必要な物資がすべて送れたらホームページ上でそれを消せば、必要以上の物資が届くことはない」(27)と著者は言い切る。しかし、2016年を迎えた現在でも覚えているが、物資支援を始めたばかりのふんばろう東日本のサイトには、被支援者の住所をはじめとする個人情報がしばらく無防備に晒されていた。実はそのようなことすら実現できていなかったのである。



そのような支援活動と著者が称していた行動を支えた集団の理念はどのようなものであったのか。


各種支援に参加した「人たちも、我々[ふんばろう東日本関係者]に許可をとって動いているわけではなかった。我々も誰がどこで動いているか正確に把握しないまま、支援先はどんどん広がっていった」(2930)と著者は書く。これはただのカオスと化した集団ではなかろうか。誰も責任をとれない集団。案の定、活動を続けている間に届いた被災地からのクレームに対しては、まともな応答が無かったことを今になって納得するのである。


いよいよ著者は本書のメインテーマの位置付けを語るのだが、それは、「本書で伝えるのは、あるケースには当てはまるが他には当てはまらないといった、通常の「個別理論」ではない。いつでもどこでも例外なく使える原理を基軸とした"叡智"である。」(39)


読んでいるこちらが恥ずかしくなるようなこの文言を編集サイドは誰も止めなかったのであろうか。著者自らが書く内容を「叡智」と形容する本を書評するのは、実に至難の業である事を告白する。



第2章 どんなチームを作るのか 「価値の原理」


この章では著者が考えるチームやリーダーの理念を採り上げている。


震災直後から、ツイッター等で発信された著者・西條氏の一連の行動を見ていると、石巻市(物資支援の不備)や南三陸町でのトラブル(後述)を抱えていたことが分かる。もちろん、そのようなことは本書には一言も書かれていない。華々しい活躍をしたような綺麗事と受賞歴に絡めて自らの信念を開陳するばかりである。


著者の自分語りの中では次のような発言もある。


「私は「自分たちと目的を共有する人は、ふんばろうの内外関係なく同志なのだから、その目的が実現できるなら誰がどんな形でやってもよいのだ」といったことを繰り返しメンバーに伝えるようにしてきた」(47頁)とのことであるが、そこから出てきた現場の話がこちらになる。南三陸町の支援を巡る金銭トラブルが暴露されている。


 → http://togetter.com/li/271698


本書の全体を通して読み辛い点は、言葉の定義もほとんど無いまま議論を進めることと、「論理」や「理論」と書きながら、結局は情緒に訴えるその一貫性の無さである。しかも、ある種の人情にうったえたいのだろうが、提示したいリーダー像の例え話がきわめて陳腐なのである。


例えば、マキャベリの言う君主と現代企業の社長を同列に語る一節(69)など、いくらなんでも無謀だろうと素朴な感想しか浮かばない。あれこれと語りたい著者のその努力は認めたいが、ここで語られる話題のほとんどは、唐の太宗の「創業と守成、いずれか難き」の問答を読めば済む話ばかりである(6972) 。 (続)