贋食物誌 | ゴロゴロ実話セブン

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なにを捜すわけでなく、

「贋食物誌」

食堂の紹介を主に行っているブログに出会うと、吉行淳之介の「贋食物誌」という夕刊フジに連載されたエッセイを思い出す。毎日のことなので煩わしかったのだろう、タイトルには食材の名前が並んでいた。

それに比べて、写真入りのそれをほぼ毎日更新する元気には頭がさがる(すぐ下がる)。

食べなければならない、というハンディがある。

評価する、地図を載せるなど本格的である。
そして地元の店をこき下ろすわけにはいかない。

ガイドブックとしては出版社のそれを超えている。

すぐれたものは大手の出版社から文庫化の話でも出てふしぎではないが、お願いがある。


「私の食物について思い出」というようなものには触れてほしい。

海老フライ、カキフライ、ラーメン、とんかつ、それぞれに泣いても泣ききれない思いがあるはずだ。

それを何行かはさんでほしい。

家族で、一人で、恋人と、わびしく食べたエピソードがあるはずだ。

つまり、その食事の後交通事故に遭い、主人と長男を亡くした、など。



「夜のバス」

井上陽水の断絶かセンチメンタルⅡに夜のバスという歌があるが、つまり夜中のバスの中で客は自分一人だけという(他になんの主張もない)歌だがこころ惹かれた。
昔といっても昭和50年代まではバスはギュウギュウ詰めと相場は決まっていた。

田舎だったのでそのバスに乗らなければ次は1時間後だ。

雨の日は傘と傘がぶつかった。

傘をビニールで包むという機械も習慣もなかった。

今は朝でも昼でももちろん夜中でもバスの中に客を見ることはまれである。

こんなことになるとは経営者は見えなかった。

慣れない宅地造成に手を出してほとんどのバス会社はつぶれた。

老人化した団地を出発する客のいないバスをみるたび、陽水の歌が浮かぶ。

ハーと民謡のように始まる。

子供(中学生)の頃覚えたが、今でも3番まで歌える。



「猫痙攣」


精神病患者の楽しみは少ない。

ブログでいえば「猫痙攣」、渡辺竜王の嫁はんが書いている「妻の小言」など限られてくる。

しかしおもわず両者とも時の人となってしまって、法律に触れるようなことは書けなくなった。

全く知らない世界を教えてくれるが更新頻度は落ちた。

残間里江子さんのように毎日違うひと場所企画があれば書くことが多すぎて(書く時間はないが)困ることもあるだろうが、一年毎日同じメンバー同じ仕事同じいがみ合いの中からどんなデタラメもそうは出てこない。

練っているということもあるだろう。

思いついたことを着地点も飛び出し地点も考えずに書きだすのは勇気がいる。

自分のことを言えばここ1,2年で新しいことを書いた記憶がない。

3年前、半年前、ひどい時は昨日と途中まで同じ内容ということも少なくない。

月に一度更新すれば事足りるはずだが書かずにおれない。


だが昨日と全く同じでもまったくひるむことはない。

読者は限られている。

読み返すのは自分だけである。

病状がもしくは老化がもしくは希望がいつなくなったのか後で気づくことがある。

あの時、嫁とダメになっていたのか、と思い当たることがあった。

写真も載っている。

風俗店にいっても読者の数によって書いていいことが変わってくる。

読者がいなくて良かった。