泣かされたといっても、ケンカしたわけでもないし
言い合いになって負けたわけでもありません。

泣いたのは、第47回全国小・中学校作文コンクールの優秀賞受賞作品を読んだからです。
作者は小学校2年生の女の子、中村咲紀ちゃん。

題材は『セロひきのゴーシュ』。
ゴーシュと動物たちの物語が、彼女自身の体験と供に語られていく。

小学生なので漢字が少なくて、読みにくかったりしますが、
出来たら最後まで読んでください。



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 だれも気がついていないけれど、ゴーシュの心の中には、へんなものがたくさん入っています。
へんなものというのは、その人によってちがうけど、じこまん足だったり、つよがりだったり、がまんのしすぎだったり、色んなものがあります。
そういうへんなものが心の中に入っていると、本当のじぶんがちゃあんと見えません。ゴーシュは一生けんめいれんしゅうしているつもりだけれど本当の自分がちゃあんと見えていないので、本当のれんしゅうができていないのです。
本当のじぶんをちゃあんと見ないでどんなにがんばっても、間違ったがんばりかたしかできません。それは、本当のがんばりにつながりません。
 けれども、きせきがおこります。

 ゴーシュはあとになって、この時のことを「おれはおこったんじゃなかったんだ」と言っています。わたしもそうだと思います。
 ゴーシュは、本当は、本当のじぶんをしっていたんじゃないかと思います。
でも、本当のじぶんはとてもひどいので、見ないようにしていたんだと思います。
それなのに、かっこうにだめなじぶんを見せられて、そのだめなじぶんにカッとなって、そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思います。

 ゴーシュはひとりぼっちじゃなかったのです。
下手でだめだと思っていたセロは、どうぶつたちのびょう気がなおるのでかんしゃされていたのです。ゴーシュの心があたたまります。
それでゴーシュは、野ねずみに優しくできるようになったんだと、わたしは思いました。
 びょう気がなおってパンまでもらったのねずみは、鳴いたり、笑ったり、おじぎをしたりしてかえっていきます。のねずみは、ゴーシュの心をあたためにやってきたけれど、ゴーシュのやさしさで、のねずみの心もあたたまったんだと思います。
 これが、心と心をくっつけ合うということです。
 みんなひとりぼっちじゃないのはいいなあ。たすけ合うのはいいなあ。
ゴーシュが、やさしいゴーシュにもどれてよかったなあ。と、わたしは思いました。

「どうして」
「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時、いつでもだっこしてもらえるように、わたしはもうだっこしてもらわなくていいの、まきがだっこしてほしいと思った時、わたしがだっこしていたら、まきがだっこしてもらえないでしょう」

 わたしは、もう一ついえなかったことがあります。わたしは、マクドナルドのハンバーガーが食べたかったのです。
ようちえんで、みんなが、「マクドナルドで何食べたあ」なんてはなしているのをきいたり、となりのいえのマーくんが、マクドナルドのおまけのおもちゃを、たくさんもっているのを見たのです。
わたしは、年中のころから、ずっとマクドナルドが食べたかったけど、おねだりできませんでした。マクドナルドはたかいだろうと思いました。
おとうさんは、マクドナルドは食べない人だろうと思いました。

 今考えると、わたしの「がんばるぞ」は、本当の「がんばるぞ」ではなかったと思います。
「つらいのがんばってがまんするぞ」の「がんばるぞ」だったのです。
わたしは、へんなものがいっぱいで、じぶんじしんもまわりの人も、何もかもちゃあんと見ることができなかったと思います。
わたしは、だれにもあまえないで、心をきつくしてぼろぼろないていただけだったのかもしれません。
だから、いくらがんばっても、つらいことばかりだったのだと思います。
私のがんばりは、がまんするだけで、本当のがんばりにつながらなかったのです。わたしはゴーシュだったと思います。

 それからすぐあとの日曜日、こんどはだっこの時よりがんばって、わたしは、おとうさんに言いました。「マクドナルドのハンバーガーが食べたいのでかってください」「いいよ」おとうさんはあっさり言いました。わたしはびっくりしました。
そんなにかんたんに「いいよ」なんて言われると、わたしはびっくりするタイプです。

「おかあさんはね、さきがいつあまえてきてもいいように、いつでもさきがあまえてくるところをあけてまっているの。見えなかった?」と、おかあさんは聞きました。
 わたしは見えなかったのです。でも、今は見えます。

 人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。
でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。
 わたしは、がんばって大きくなります。