「江戸の教育力」 | 書道教室 墨屋好文堂

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江戸の教育力 近代日本の知的基盤/大石 学
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前々から江戸時代だとか寺子屋だとか言っておったのでこちらの本でそれがどんなものだったのかを調べてみたました。


江戸時代の何がそんなに偉いのかというと、戦国時代の次の時代であり、明治維新がとりたてられている昨今ですがそんなの小さい小さい。日本にとってもっとも大きな歴史の転換点が江戸時代なのです。ということだそうです。

その変化の内容はというと、


江戸前期・・・平和の到来と文字社会

   中期・・・8代将軍吉宗の教育改革

   後期・・・国民教育の発達と普及


といった具合です。


と、その前に戦国時代について。

日本社会では意外にも子どもが大切にされ教育が発達していて


キリスト教のザビエルは、日本は読み書きをする者が多いので布教に有利である。少年を含む記憶の良さ理解の早さを高く評価している。


イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、日本人女性の多くが文字を書くこと、教育において体罰を行わないこと、子供達は寺で学習すること。日本の教育はまず書くことを学び後に読みを学ぶこと。日本の子どもは10歳でも50歳くらいの判断力と賢明さ思慮分別をそなえていることなど賞賛している。


・・・本の内容を全部をここでまとめると怒られそうなので、ちょこっとかいつまんでみます。

別にこの時代の教育を目指そうってことではなく、あーこんな出来事の中を生きてきた自分達の先祖の遺伝子が私達それぞれの中に代々伝わってきてる、つまりその遺伝子の中に記憶として組み込まれているんだな、程度にとらえます。


ではいきなりですが、1600年頃まずは書くことから始まりました。戦国時代が終わり平和になると、身分の高い人も低い人も、ものを書くようになる。書くことは諸学の基本であるので皆これを学ぶ。徐々に学問や武芸を習わせるが習字はこれより早く幼少から習わせなければ身に付かない、とある。

どこで習うかというともちろんのちの「寺子屋」(手習い所)最初は「藩校」として設立。”文治主義”という武力ではなく儒学(お馴染み孔子先生の)の普及・浸透によって社会の安定を目指す政治によるもので、藩士やその子弟、武士や領民のための教育機関で明治4年までに267の大名家(藩)で設立される。そういった藩校の多様な展開を支えたのが、より小規模で個人的な教育機関である「寺子屋」。


そしてなんとこの本に我らが讃岐高松藩 松平家による藩校設立の歴史が取り上げられていてちょっと嬉しかったり。

こんな感じです。


1702年・・・藩主頼常が藩校の講堂を建てるも財政難で一時廃止

1737年・・・講堂再興し、武士や庶民が儒学を学ぶものちに中断

1780年・・・藩主頼真が新たに藩校講道館を設ける


なんか廃止とか中断って印象悪いなと思っていたら、


藩主が主導して設立することが多かったため、藩主の代替わりとともに衰退、廃絶することがあったがこの動きは江戸中・後期の教育制度の発展・拡大の重要な基礎となった。


そうです。


そして、8代将軍吉宗の「享保改革」における教育改革が日本型社会を形成していくことになるのです。これは1716年~45年の29年1ヶ月という息の長い改革で、それにより庶民を含め国民全体を対象にした儒学の普及、文字や教育への感心を高めると共に国民共通の価値観を社会に深く浸透させーの知識や技能も向上しーの。

向上したら目に見えて現れたのが手紙を書く人が増えたというところで、昔は用事があったら口上や伝承をしてきたが享保期には口上で済むことも手紙(書状)にしてさらに封に入れるという。

そうすると紙が大量に使われることになるわけで。そうやっていつの時代も教育熱の高まりの背景には経済の発展があると。

しかし一方で「世間体を気にして無理に能力、資質不相応に学問をさせると、体をこわして病気になる。」と教育熱に対して警告を発するところもあったり、

学校で知識を得た者たちが自分たちの権利を主張したり行政に対して要求をするようになったり裁判を起こすようになったりという嘆きもあったようです・・・。

いつの時代も光と闇は同時に存在するわけですね。


ちなみに著者の大石学さんはNHK大河ドラマ「新撰組!」「篤姫」「龍馬伝」の時代考証も担当されていました。が、残念ながら私はどれも見ておりませぬ。