『ドリトル先生航海記』 動物や鳥と、話してみたい | 手当たり次第の本棚

『ドリトル先生航海記』 動物や鳥と、話してみたい

動物と話す。
あるいは、鳥と話す。
これって、普遍的に、人間が
「やってみたい」
と、思う事なのかもしれない。
洋の東西を問わず、動物や鳥の言葉を話せる(理解できる)ようになる物語は、たくさん存在する。

でも、動物と会話をするだけでなく、動物と友達にもなってしまう人。
その第一人者は、なんたって、ドリトル先生だろう!

小学生の頃に大好きだったこの物語を、高校の頃、英語の勉強のため、英語で読んだ。
その時、ついていた先生によると、
「ドリトル先生の名前は、実はあまり上等な名前ではない」
のだそうだ。
イギリスに滞在経験のある先生によると、ドリトル先生の名前は、do little 、つまり、「(ほとんど)何もしない」という意味。
イギリス流の階級意識とか、背景にはいろいろなものがあるのかもしれないが……。
たしかに、半ば隠遁しているように見えるドリトル先生、社会的地位は、上等じゃないのかもなあ、などと思わぬでもない(笑)。

そう、ドリトル先生は、人間社会からみると、はみ出し者なのだ!
アウトサイダーと言ってもいい。
これって、
「人間は霊長(他の動物より偉い)である」
という、ヨーロッパ的な考え方からしても、そうなんだよな。
動物と同じラインに立っているドリトル先生、この点でも、すでに、はみだしちゃってるわけだ。

また、「だからこそ」、動物たちの仲間に入って、ふしぎな冒険をする事ができるのだろう。

人間の(あるいは大人の)常識的な考えからすれば、
人間の限られた五官や、体の表現力では、動物や虫などと話をする事など、できるはずがない。
単純な話をすると、たとえば人間にはしっぽがないよな。
犬がしっぽを振ってあらわすものを、人間は、同じように犬に伝える事ができるか?
……かなり難しそう。

ドリトル先生が、実際にはどうやって、他の動物と話をするのか、それは、明確にはされていない(笑)。
ともかく、ドリトル先生は、どうにかこうにかして、他の動物と話ができる。
それがお約束で、それで良いのだ。

しかし、はみ出し者であるという見方で良いのか?
別の見方をすれば、新たな世界を知る為には、自分の生きている世界から、一歩外に踏み出さなくてはいけない、という事にもなりそうだ。
ドリトル先生の冒険も、一歩踏みだしたところから、始まっているわけだね。

ドリトル先生のシリーズ、何冊も出ているけれど、その中で一番好きなのは、やはり『航海記』。
虹色の大きなカタツムリが出てくるのって、確かこれだったはず。
いいなあ!
でーっかい、虹色のカタツムリで旅行。
ちょっと、やってみたい気分になってしまう。


著者: ヒュー・ロフティング, 井伏 鱒二
タイトル: ドリトル先生航海記