『赤毛のアン』 文学少女は赤毛のアンは好きか? | 手当たり次第の本棚

『赤毛のアン』 文学少女は赤毛のアンは好きか?

赤毛のアンって、好き?
まあ、本・書評ブログで盤踞する人ならば、おそらく、読んだ事がないってことはないだろう。(と、たかをくくってみる)。
もちろん、私も読みました。
児童文学全集に入ってたからな。
しかも、続編を母が持っていたので、続編まで読んだ記憶がある。

で、後にまわりの人々に聞いてみたところ。
男は、
「ああ、俺も読んだよ、子供の頃! 少年少女文学全集ってあるじゃん、あれに入ってたしよ」
「アニメ見てから読んだんだよな。あれってアニメと違うよな(汗)」
おおむねこんな感じだったが、女の場合は、どうも好き嫌いがハッキリと分かれるらしい。
なんでだ?

どうもそれは、本を読むのが好きで、夢見がちで、自分もお話を書くのが好きな、アンという少女に、自己投影してしまうからのようだ。
いや、これがさ。アニメのアンみたいな女の子なら、こうもきっぱり、女性読者の好き嫌いが分かれるという事は、ないだろうと思うのだ。
しかし、アンっていうのは、アニメのアンみたいに明朗で足取りの軽い女の子じゃないんだよな。

そもそも、彼女は、孤児であって、グリーンゲイブルズに引き取られた当初も、どうもいまひとつ、なじめずにいたようだ。
それはつまり、彼女の「夢」と「現実」が大きくへだたっていたことと、アンのコンプレックスがかなり強いものであり、そしていささか鼻につくほどの自己陶酔癖がある、というのが影響しているんだろう。
不幸な境遇にめげず、空想をふくらまして、ある意味、逃避するわけだよな。
その様子を、ほほえましく思う人と、
「なんかちょっと、ヤダ」
と感じる人がいるのではないか。

逆に言えば、アンというキャラクターはそれだけ複雑な人物像なわけで、名作と言われ、人気が衰えない理由も、そのあたりにあるんじゃないかと思う。
実際、アンに比べれば、彼女の親友となるダイアナは、いまいち薄いキャラに見えてしまう。

ところで、アンは、単なる夢見がちな少女というだけではなく、かなりお転婆だし、自己主張も強い(笑)。
これって、なんかとっても、ローティーンの女の子をリアルに描写しているようで、私はむしろ、その方が面白かったな。
ギルバートの頭を石版でひっぱたくとか!(大笑い)。
もし、アンみたいな女の子が身近にいたなら、やっぱり、からかいたくなるだろうなあって思ってたのだ。
(そして、石版でひっぱたかれるのかも)。
気が強くて、頭が良くて、おまけに、髪の毛が真っ赤(とても目立つ)。
学校では、ひそかに人気があったかもしれない。
黒髪で色白のダイアナは美人だけれども、こんな風になりふりかまわないアンの方が、目立つのは、行動のなせるわざ。

考えてみると、けっこう、アンのキャラクターって明暗こもごもだね(‥

さて、この物語の良さは、こういった、アンの性格や言動が、だんだんマイルドになってきて、人間的に成長していくところなのだと言われる。
たしかに、アンとマリラの心が通いあっていくところとか、そばかすだらけの女の子が美しいハイティーンになっていくところは、素晴らしい成長物語だけど。
どうも、マイルドになったアンって、私には、あまり魅力的に思えないのだな。
その証拠に、『赤毛のアン』は何度も読んだが、続編は一度しか読んでいないと思う。

やはり、アンの魅力というのは、あの弾けたような活発さと、空想過多が同居しているところにあるんだろう。
このふたつのポイントが、両極端で、いまひとつバランスが取れていない。そういうアンバランスなところが、たまらないんだな。



著者: 掛川 恭子, ルーシー・モード・モンゴメリ, Lucy Maud Montgomery
タイトル: 赤毛のアン