想念形態は、メンタル体とアストラル体で造られます。これを造ることは、メンタル体とアストラル体のそれぞれの重要な役目でもあります。
 想念形態を構成しているのが、メンタル質料だけのこともありますが、多くはそれよりも粗い、アストラル質料から造られています。どこが違うかというと、非個人的で、欲望の混じらない、純粋に知的な思考の場合は、メンタル質料だけに作用します。これに反して、少しでも利己的ないし個人的な欲望や感情というものが入ると、その思考はそれ自身の周囲にアストラル質料を引き寄せてしまうことになります。
 つまり、精妙なメンタル質料と、それよりも波動の粗雑なアストラル質料とが混在した状態です。
 もちろん、単にこれら二つの状態があるだけではなくて、想念形態には、人間の意識の諸段階や悟りの度合いに応じて、無数の段階があるわけですが。思考がさらに高い霊的性質や無私の愛の性質をおびていたりすると、ブッディ界層特有の光輝に満ちた、美しい色彩を放つことになります。

 想念の現れ方には、二つの面があります。その一つは、波動です。思考や想念を、メンタル体が起こしたとします。すると、陽の光を受けた滝のしぶきが虹の色を呈するように、メンタル体から想念が美しい波動となって、放射されます。
この波動の性質によって想念は、それをひき起こした人のメンタル体から放射されて他人のメンタル体に到達し、その結果、同じ振動率でしかも同じタイプの想念をひき起こすことになります。
 ここで注意を要するのは、波動は想念の対象ではなく、性質だけ伝達するということで、たとえば、宗教的な感情の場合、クリシュナ神に帰依しているヒンズー教徒の発する、敬虔な感情の波動にたいして感応しやすい人に、同じく帰依の感情想念を起こさせるだけであって、必ずしも帰依という想念の対象である、ヒンズー教徒にとってのクリシュナ神を思い浮かべさせるということではありません。もし、その波動を受け取った人が仏教徒だったら、仏陀であるとか、キリスト教徒なら、イエスキリストであるとか、日頃、帰依の想念の対象とされている象徴が浮かぶことでしょう。
 では、どういう場合に、波動のもたらす影響力が大きいかというと、一つには、想念が明晰であればあるほど、その力は強まります。二つ目は、想念を発した人から届いた人までの距離に比例して、その力は減ってゆきます。
 つぎに、想念の現れ方の二番目は、形態となって浮遊するということです。どういうことかというと、想念を起こした母体がメンタル体であれば、メンタル体は振動している想念の一部を体外へ排出し、排出された部分は周囲のメンタル界層にあるエレメンタルエッセンスといわれる、いわば材料を周囲に寄せ集め、集まった材料は、質料として想念の質や内容に応じて形をとります。想念の質や内容に応じてといったのは、高尚か低俗か、非利己的か利己的かなどにより、その想念に感応する質料も精妙か粗雑かが決まるからです。
 仮に、想いのエネルギーを外側の欲望の対象に向けて発したり、激しい感情を発したりすると、そうした種類の想念エネルギーは、アストラル体の一部を排出させます。そして、その周りにアストラル界に存在する、エレメンタル・エッセンスというものが集まり、想念形態を形成します。
 このときの想念形態は、カーマ・マナス(欲望-精神)と神智学で呼ぶところの、メンタル界の下位の精神が、アストラル界の動物的性情をもつ欲望に支配されることで起きるものです。