人は何のために生きているのか?


これに関して、神智学の答えは、とても明快です。


一本の木が葉をだして、春、夏、秋と過ごしつつ、栄養をとりいれ、それを

樹液に移し、その樹液が親ともいうべき幹に吸収されて、やがて寿命が尽

きて枯れ果ててゆくように、人間も「高我(魂)」と呼ばれる真の存在が、物

質界、アストラル界、下位メンタル界のそれぞれにおいて、自分を表現す

仮の存在であり、媒体でもある肉体、アストラル体、下位メンタル体として

過ごし、これらの「低我」が集めた経験からの学びを、コーザル界という、

より上位の高い界層にいる高我に伝え、一定の時期をへて任務を終了す

ると、一つの生を終える(いくつもの転生をへて、魂が進化してゆく)と説明

されます。


つまり、本体であり、母船みたいな「高我(魂)」こそが生命の本質であって、

その宇宙船から発進した円盤が様々な星を探索して乗組員が一定期間を

過ごしながら経験を積み、そこで得た情報や知恵や学びというものを、母

船のほうに伝送してくる。


円盤は任務完遂とともに、消滅しますが、母船には、そのときの記録がラ

イブラリーのように保存されることになる……。そんなイメージでしょうか。


それでは、「高我(魂)」がより早く進化を遂げるためには何が必要なので

しょうか。


それは、低我が活動する、物質界、アストラル界、下位メンタル界での混乱

より一日も早く抜け出して、それらにより秩序をもたらすことです。


それを知る一つの目安が、想念形態の明確さです。


メンタル体を発達させればさせるほど、明確さや明瞭さがやってきます。


明瞭な想念ほど、ぼんやりとした想念に比べて、届く範囲は遠くなり、与える

影響力は大きくなります。


ある程度、発達したメンタル体は、発する思念の強さと影響力のために、それ

が否定的で破壊的なものであったり、邪悪なものであったりした場合には、非

常に危険なものとなりえますから、それだけ、取り扱い内容や取り扱い法に細

心の注意を払う必要が出てきます。


では、そうした危険に陥ることなく、想念の力を善用し、人々の魂の進化に貢

献し、人類の進歩と幸福のためになるには、どんな心がけが必要でしょうか。


それには、高い波動(バイブレーション)、つまりコーザル界(直知・直観の世界)

から来る精妙な波動に感応する必要があります。


高次元の波動に感応するにしたがい、低我と高我をへだてていた幕は薄くな

ってゆきます。


同時にまた、いかにして低次元の感情や欲望による支配から低我が自由にな

るか、そこが大切になります。


一つの物事から他の物事へと、絶えず心が飛び移り、落ち着きのない状態(ク

シプタ)が、物質界における動きであり、感情にいちいち動かされ、惑わされ
る混乱の状態(ムードハ)が、アストラル界での行為です。

また、未発達のメンタル体は、下位メンタル界層での行為に終始します。
それは、どういう状態かといいますと、ある一つの考えだけに夢中になっている

状態(ヴィクシプタ)です。のぼせている状態といってもよく、取り憑かれた心の

状態ともいえます。


ここでぜひとも学ばなくてはいけないことがあります。


それは、ヴィヴェーカ(Viveka)です。


ヴィヴェーカ(Viveka)というのは、「識別」のことです。


「この世に重大な関心事となるものはそうあるものではない。たいていのことは

何ら問題となるものではない」(リードビーター司教の言葉)


このことを学ぶことが、ヴィヴェーカ(Viveka)になります。


神智学における「弟子」とは、大師(チベット語のチエラ)の弟子となり、

白色聖同胞団(ホワイトブラザーフッド)と呼ばれる魂のグループに入る

人を指しますが、その条件として、アストラル体はもちろん、メンタル体を

制御し、発達させることはもっとも重要なことになります。


弟子は通常は激しく変化する環境の中に投げ入れられますが、
それも外界の物事がすべて定まることのない、果敢ない事象
にすぎないことを悟らせるためであるといいます。


彼はその体験により、識別の力すなわちヴィヴェーカ(Viveka)がおおい

に鍛えられるのです。


弟子は嵐と緊張の連続である生涯の生活を通じて、その中でも平安な

心を保てるよう、彼の能力を伸ばすことが余儀なくされ、その結果、自己

完成に至るのです。


そして、そのつぎに来るのが、ヴァイラーギヤ(Vairagya)です。


これは、「無関心」と訳されます。外界の事物が変化変滅する、あてになら

ないものとわかれば、自然とそれらに無関心とならざるをえません。

ですが、そうなれないとしたら、その分、精神が未成熟ということです。

発達した意識の段階においては、常住不変のものだけに、いよいよ注意を
払い、そこに一心集中できるようになってきます。


いわゆる不動心です。


そこに至るための通路として、また、混乱や艱難辛苦や苦悩を無化して、
心の平和と運命の調和をもたらすものが、古来からある、キリストの御名
や阿弥陀様の御名を唱える方法です。これにはさまざまなものがあり、念
仏や南無妙法蓮華経、ご真言やオーム・マニパドメ・フーム、マントラ、
祝詞、読経と、すべてこの心の統一のための名号や祈り言の類いです。

要は、高次元の波動とつながる方法です。


五感を通じて起こされる雑多な感情想念に引き回されることなく、すべて
は過去生から現在までの潜在意識に蔵された想いの種子の現れては消えて
ゆく姿であるとして、これにとらわれずに、「世界人類が平和であります
ように」という祈りの中に想いを投入してゆくとき、上記の世界のすべて
を含む救世の光明霊団の大光明とつながって、その光が降り、その中であ
らゆる想いの波が消し去られ、潜在意識に宇宙神の光のみが流れ入り、し
だいに運命も修正されてくるのが、世界平和の祈りです。


それは、低我が低い界層の波動に引っ張られ、絶えず混乱と不調和な状態
にあえいでいる状態から、高我と一体となって、澄みきった心境でいるこ
とがしだいに多くなってきて、ときに運命の大波が襲ってきたとしても、
すぐに立ち直って、平静な心を保っていられるようになる、個人の魂が進化
する力となると同時に、地球人類を高い次元に引き上げる働きもします。


ただ、スイッチさえ入れれば、電灯がともるように、祈りに意識を向けさえ
すれば、光が流れ入るとはいえ、神智学でいう、嵐のような人生の一場にお
いて、大波に翻弄されることなく、即、想いを祈りに転換できるためには、
やはり何が移ろいやすく、何が変わらざる真理かということを、「識別(ヴ
ィヴェーカ)」できる力とともに、消えてゆく姿には「無関心(ヴァイラー
ギヤ)」でいられる力が必要になってくるということです。


その点が会得されないかぎり、この文章の冒頭の問いかけ、「人は何のため
に生きているのか?」がわからなくなり、つまらぬことに執着したり、引き
回されて時間を浪費し、おまけに生まれてきたとき以上に、カルマ(業想念)
の波動をいっぱい引き寄せ、増やして、つまらぬ一生を送ってしまいます。


宇宙の法則でもある真理を知ることは、何とありがたいことでしょうか。


そして、この永遠の真理へと至る扉をあけるマスターキーを手にするかどうか

も、「何のために生きるのか?」といった、魂からの問いかけにたいし、勇気を

もって耳を傾け、その素朴にして強い声にしたがい、真摯に求めるかどうかに

かかっているといえるのです。