人が亡くなってから、まずアストラル界でその人の否定的な想念感情が一定期間かけて浄化されることになります。その後、こんどはメンタル界層に移りますが、そこは低級な欲望や感情に反応するアストラル質料のまったく存在しない素晴しいところです。意識から見れば、アストラル体を脱いで、メンタル体のほうに移るわけですが、この段階を神智学(テオソフィー)ではデヴァチャン(「天国」と訳しています)と呼んでいます。デヴァチャンは、サンスクリット語のデヴァストハーン(神の土地)に由来し、輝く土地を意味します。ここの住人がデヴァチャントです。

デヴァチャンは「人間の地上生活が果実化する至福の安息所」ともいわれ、悲哀も邪悪も存在しない、想念の世界です。アストラル界での死から目覚めた本人が感じるのは、形容もできないほどの至福と活力であり、生きていることの歓喜であり、これも太陽系宇宙におけるすべての高次元世界の生活のエッセンスのひとつであるそうです。

さて、デヴァチャンで目を覚ますと、微妙な色彩に迎えられます。そして全身に光と調和がみなぎり、あたりにたちこめる黄金色の霞の中から地上生活のあいだに彼の愛した人々の顔が現れます。「その顔は霊妙なる美に輝き、下界の葛藤や喜怒哀楽に染まぬ至と気高き、至と美しき情感を湛えている」(第三巻メンタル体 「第20章 天国の原則」より)

天国での生活では、各人の身の回りに生前の親しい人々(夫婦、親、兄弟姉妹、親友等)が集まってきます。しかし、それはその人々そのものではなくて、似姿ともいえる想念形態です。どうやってそれができるのかということを説明しましょう。

まず、かつて深く愛した人への感情、または何らかの崇高な存在(神や精神的な師匠、マスター等)への帰依の想いによって心に描かれた心象(似姿)が、そのままメンタル界にまで持ち越されます。それら愛や献身の想いというのは、高級な想念として、メンタル界を構成している質料に感応する性質のものです。また、深く愛する相手の心象をつくっている質料もメンタル界を構成する質料と同質のものです。

そこで、このデヴァチャンの住人となった霊的存在の強力な想いは、その対象であり、心象の主である相手の「魂」(エゴと訳されます。真我、神性そのものの本質と考えてよいでしょう)に働きかけることができます。「魂」がいるのはメンタル界の高位の第一、二、三亜層つまりコーザル界ですから、そこまでも届くということです。

すると、コーザル界にいる妻なり夫なり親友なりマスターの魂は、自分にたいする愛の波動に気づいて熱心に応えます。どういうふうにして応えるのかといいますと、自分のためにつくられた似姿(心象、想念形態)の中に自分自身の魂の一部を注ぎ入れます。それによって、この似姿は命を吹き込まれた生きものとして、地上生活中に交流したときや共に暮らしたときよりもはるかに生き生きとして、本人のそばにいっしょにいるようになるのです。

このときの相手は生きている相手でも亡くなっている相手でも変わりないといわれます。どちらにしても、呼びかけられるのは、肉体の中に閉じ込められている相手ではなく、本来の高い次元の界層で自由自在に活動しているほうの相手だからです。しかも、高次の世界は、肉体的限定から解き放たれた世界であるがゆえに、たとえば百名の友人をもっている人が、百名の一人一人から愛念をもって呼びかけられたときは、その一人一人の全員にたいして同時に十分に応えることができます。よく救いに立つ立場の精神的マスターが、弟子から救いを求めてその名を呼ばれた際、どれだけ多くの弟子から同時に呼ばれても、瞬時に応えられると聞きます。それはこうした理由からだったのですね。

「故に人は自分を愛する人が何名いようと、彼等の『天国』の中に自分自身を示現することができるのである」

だから、自分を愛してくれた人が亡くなったあとに天国に行くと、その方が描いた似姿の中で自分の本質の魂の一部が引き出されて生きることになり、それだけ自分自身の善なる命が生かされることになるともいえます。これが地上で生活する私達に好影響を与えないわけがないと思います。近親者や生前深い愛と調和の美しい感情を取り交わす間柄だった人が他界してから、なんだか心が晴れやかになったり、能力が向上し、開運に向かったとすれば、おそらくはこうした天界からの影響がおよぼされたということなのではないでしょうか。

したがって、否定的な現象の噴き出している現在の地球の状態を見るにつけ、私達がぜひとも考え直してみることを提案したいのは、つぎのことです。それは目に見えるこの世の物質生活が本当の世界であるという考え方を再検討し、永遠に続く魂の世界こそが実在する世界であって、生前の想念生活において愛の想い、美しき善き想いのみを抱いて日々を送るかということがいかに大切であるかという点にもっと目覚める必要があるのではないかということです。

デヴァチャンと呼ばれる天国では、物質界やアストラル界では可能でなかったことが可能となります。アストラル界層では、睡眠中に肉体から離脱し、アストラル体に移った知友に出会います。そのときの知友は高我ではなくて、低我にかぎられます。

また、肉体の制約を受ける物質界では、家族や友人、知り合いのことを考えると、なかなか完全な姿では思い浮かべにくいかもしれません。どうしてもふだん目の前に現われてくる習慣的な性癖をはじめとする、彼らのマイナス面も含めた不完全な現象がまといついて、本来の人間としての美しい、完全な姿は現われにくいものです。

それにたいして、亡くなった人がデヴァチャンで出会う知友というのは、その知友がまだ地上生活を送っていたとしても、そこで用いているメンタル体とは異なる、メンタル界層で使用するメンタル体をまとった知友ですから、高我としての知友に会うことになるわけです。なぜなら、メンタル界層が物質界やアストラル界よりもずっと魂の本住の地に近い、実相の界層だからです。デヴァチャンでは、彼らの最善の姿(若さ、美、やさしさ、愛深さなど)に再会することができます。

といっても、もともと地上生活において愛と調和の想いで交流できていなかったなら、そして相手を深く愛し、自然と心の中にその相手の美しいイメージが形成されていなかったなら、デヴァチャン生活で愛する人に再び会えるということもなかったわけですね。

「地上での繋がりが単に肉体やアストラル体のもの(好き嫌い、何らかの欲望等)であった人、あるいは内的生活(思想、見方考え方、性格等)において一致しなかった人はデヴァチャンでは接触することはできない。心と情(ハート)との共感、調和だけが人と人とを引き寄せられることができるのである」ということで、この界層においては、どんな時空に隔てられた別離も、また言葉や想いのすれ違いも誤解も起こり得ず、地上生活時代の何百倍も親密な魂と魂の交わりがあるのです。

素晴しいですね。誰でも自分が深く愛した人が、かつて見せてくれたもっとも美しい瞬間の表情を心に思い浮かべることができることでしょう。そうした瞬間こそが本当なのだ信じることです。デヴァチャンについては、生まれ変わるごとに、「地上の低我の中より道徳的にすぐれたものと意識との甘露だけを収集する」という、ヒマラヤの大師の言葉もあるとのことです。

特定の相手だけでなく、この世で出会うすべての人にたいして、その人のもっとも美しいものを見ることができたらいいですね。甘露(ネクター)ばかりを集めるような生き方をめざしましょう。