永遠不滅の魂は、生まれ変わることによって、その潜在性を「低我」において諸能力の発揮という形で展開することを通じ、また、「低我」がさまざまな体験を積むことにより、進化します。
「低我」が体験をするには、感じる媒体であるアストラル体や考える媒体であるメンタル体が必要です。死後に移行するアストラル界や下位メンタル界で、順次それらの媒体から魂の進化と各界層における生命活動になくてはならない恒久原子というものが引き揚げられて、コーザル界(高位メンタル界)のコーザル体の中に退きます。それにともないアストラル体、メンタル体とつぎつぎに恒久原子が休眠状態になり、最後には上層にのぼってコーザル体をまとうだけになります。恒久原子に貯えられた経験の粋と知恵はそのまま魂の成長に寄与し、つぎの生へと持ち越されます。 そして、もっと体験を積みたいという想いの発生とともに、つぎの転生に向けてコーザル体から再びメンタル体、アストラル体と恒久原子が活性化し、前の生で残したアストラル体、メンタル体と同質の各体を形成し始めます。
 こうして、魂は粗い波動レベルである肉体界の「低我」と精妙な波動レベルであるコーザル界の「魂」との間を往還しつつ、進化してゆきます。


 魂が娑婆界の中にホンの短期間だけ漬かるのは一羽の海鳥がえさの魚を求めて海の中に潜るのにたとえられる。

 一粒の真珠を求めるために潜水夫が深海に跳びこむ。しかし、そこには彼の固有の領域ではないため長くはとどまらず、再び上昇して本来の領域に入り、重い成分は振り落とし、振り落としたものは後に残す。地上より逃れた魂はその古巣に戻る。なぜならば、古巣こそは「神々の地」であるからであり、地上における魂は流人であり囚人であるとはまことに至言である。
(第24章 魂と生まれ変わり 『神智学大要』第四巻コーザル体 p.195)


 「魂」と「低我」。これら両者の隔たりはあまりにも大きく、これを克服した人が霊的に完全に進化を遂げた人であり、この人を神智学では大師と称しています。
 「魂」と「低我」との関係を言い表すのは難しいため、前述したとおりせいぜい比喩を使って示唆することが可能な程度です。
「低我は魂の一断片であって、いろいろな困難な事情の下に自己自身を表している魂の微細な一部である」といわれ、「われわれはその人の真我の千分の一を知っているだけであり、しかもわれわれの見ているのは実は最悪の部分なのであるといえば、当たらずと雖も遠からずであろう」といわれるゆえんです。
 ただ、私たちがここで誤解してはならないのは、「低我」と「魂」は別々のものではなく、「低我」も「魂」の一部であり、私たちの本来の姿は光輝く「魂」としての存在にほかならないということでしょう。その真実を、完全に悟るときが、少しでも早く訪れるためにも、私たちは神智学の体系的知識の理解とその実践に努めているのだと思います。最後につぎの言葉を紹介して終わります。


 もしも人が壁の中の穴や小さな金属パイプの中に指を入れてしまい、その指を曲げることさえできなくなれば、その指によって自分を表現することなどほとんど覚束ないのはいうまでもない。この稠密な肉体の中に入れられた魂の一部の運命もまた大方これに似たものである。
 前記の譬えをもう少し進めて、指は指自身の意識をかなり持ち合わせていて、肉体の部分よりいわば切り離されてしまっているために、自分が全肉体の単なる一部にすぎないことを一時忘れてしまっていると考えることもできる。。その指はもっと自由な広々とした生活を忘れ、、穴に自分を合わそうとし、周りの見栄を飾り、、金銭、財産、名誉などを得ることによってその穴を楽しいものにして[満足しているが―訳補]、実は穴から完全に抜けて自分を肉体の一部であると悟った時に本当の生き方が始まることを知らない。これはたとえとしてはギコチないが低我の高我に対する関係をいくらかは伝えたことになるのである。
(第24章 魂と生まれ変わり 『神智学大要』第四巻コーザル体 p.198)