今回は魂の生まれ変わりに関するお話です。私たちがなぜ生まれ変わるのかというと、その目的は、魂に潜在している特質を進化させることにあります。そのためにはどうしても外部からの衝撃が必要になります。
 そこで、魂は「自分の一部」を、その衝撃を感じることができる、より濃密で粗雑な波動の下の界層(肉体界)にまで降ろさなくてはならないわけです。そして、やがてそこで「経験を通じて生みだした成果」を、再び母体である魂自身の中へと引き揚げます。(死後、霊界などに移行し、エーテル、アストラル、メンタルの各体を脱ぎ捨てて、最後はコーザル体をまとうだけになるが、このコーザル体に経験による成果が蓄積される)
 この魂が自分自身の一部を出して生まれ変わるのは投資にたとえられます。ここで、大事なことは、投じた資本を「回収」するだけでなくて、所期の目的を果たして収益をあげ増資することができる一方で、損失を受けることさえもあるということです。カルマを消すよりも、新たにカルマを積んでしまうケースですね。

 魂が生まれ変わるために界層を降ってゆくとき、魂は制限を受けます。

 その様子を喩えてみれば、あたかも二次元平面に描いた絵では、三次元の立方体の建物や景色は正確には表現しきれないように、高次にある魂の表現は、あまりにも鈍重な下位の質料の波動においては、はなはだ不完全となります。

 たとえ千もの低我を魂が取ってみて、これらを合わせても、彼を完全に現わすことはできず、せいぜい望めるのは、「低我が魂の意図しないものは持たないこと―逆にいえば、低我が魂のもっている徳をできるだけ多くこの下界で表現することである」といわれます。


 ということは、今、目の前にいる肉体をもった存在である人間の本質というのが魂であって、それはこの物質界よりもずっとずっと高い界層に属していて、目の前にいる人がどのように立派であったとしても、その人の魂自体は、そうした低我の現象に比べれば、はるかに優れ、偉大であるということらしいのです。「らしいのです」といったのは、想像もおよばないくらいだからです。

 しかし、これが本当ならば、私たちは真の自己である魂、つまり、私たちがその魂を母体として、その一部が出されて私たちの肉体に入り込んでいるところの、魂そのものというのは、これが自分だとは想像しにくいくらい、とてつもなく立派であり偉大な存在なのですから、もう少し自信をもってもよいことになるし、早くその本体に帰りたくもなるかもしれませんね。


 面白いのは、魂は一個の肉体に限定されながら、彼を愛する友人らが彼について抱く想念形態(彼の人間像)はいくらあっても、それらすべてに入魂できるという点です。そのほうが、自分自身を表現できる機会が増し、それによって、多数の想念形態を通じて美徳が展開できるために、その魂にとっては喜ばしいことだというのです。これは、決して自己顕示欲などとは無関係でしょう。肉体性を超えた働き。非局在性(ノンローカリティ)こそが魂の本性であることを示しているといえます。


 そういうわけで賢者は、真の人間は魂であって低我でも肉体でもないことを認識しており、真に重要なのは魂の生活だけであって、肉体につながりのあるものは一切何のためらいもなしに魂の持つ高度な関心に従うべきであることを知っている。この地上の生活は進歩する目的のために与えられているのであり、この進歩こそが唯一の重大事であることを認識している。

 故に人生の真の目的は魂としての彼の力の展開であり、人格の発達なのである。(中略)さらにまた彼はみんなのためにならないものは、本当は魂としての彼自身のためにも、その他誰のためにも成りえないことを経験によって知っている。そのうちに彼は自分自身を全く忘れ、何が人類のために一番よいかということだけを求めるようになる。

 (「第24章 魂と生まれ変わり」 『神智学大要』第四巻 コーザル体 p.193より )


 わざわざ粗い波動の質料の着物をまとってまで魂が低い界層に降りてくるわけは、魂に潜在しているいろいろな能力を展開し得るからなのです。


 

  魂が自分自身を下に降す全目的は、もっと明確になること、美しくはあるが、朧ろな感情を行動に移す明確なる決意に結晶させることにある。彼のあらゆる生まれ変わりは正確と明確とを得るための過程である。


 この人生で私はいったい何をしたらよいのか。こういう疑問を誰しもが抱かないことはないはずですが、やりたいことがはっきりしているからといって、それが必ずしも魂の望んでいることとは限りません。なぜなら、あくまでも魂自体に宿る潜在性の発揮でなくて、欲望に駆られて行為する場合は、魂の望みとは矛盾してしまうからです。

 また、生まれ変わってある人種の中に入ってゆくのは、その人種の人々が完成をめざしている美徳というものがあり、それを獲得するためだというのです。それを、魂の進歩の道である「専門化」と呼んでいます。日本人に生まれれば、日本民族が完成をめざして努力している美徳を、イギリスやアメリカに生まれれば、アングロサクソン人が完成をめざして努力している美徳を習得しようとしていることになります。

 

 ある種の特質が発達すると、魂はそれを吸収して自分のものにし、それを幾度もくり返す。低我は魂の中に撤収するとその達成した特別なもののうち或る分量を全体に「バラ撒く」、すると魂がそれを吸収して、前よりもそれだけ曖昧さが取れて明確となる。


 やはり、一回ごとの人生で努力したことの積み重ねが、後々の生まれ変わりの人生で役立つことがあるのですね。とはいえ、別に才能を磨くことやある種の特質を伸ばすこと自体が生まれ変わりの目的というのではありません。 ブラヴァツキーが『神智学の鍵』で、本質は神性でありながら、いまだ全体と一つになるほど純粋でない一個の霊があると想像してみてほしいといいながら、「この霊は、多様な、特殊化した宇宙の中に存在するあらゆる体験と感情とを高我および低我として、すなわち霊的にかつ肉体的に通過することによってのみ純化することができるのである」と述べていることからもわかるように、さまざまな体験や感情を味わうことで、純化されて全体に帰一するということこそが、生まれ変わりの目的となっているのです。 


 しかし、ともすれば、大いなる全体の、自分が部分にすぎないことを忘れてしまい、低我がすべてと思ってしまいがちです。そうすると、魂の本体のほうに回収できるだけの多くの学びを得ることもなく、投資を失敗に終らせてしまうことになります。こういうたいへん残念なことにならないためにも、目先の物質的なことやこの世的な繁栄や名誉に向かいがちな傾向に注意しながら、魂の声に常に耳を傾けるよう意志してゆくことが大切なのでしょう。