本稿は7月28日の續きです。
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御製に學ぶ日本の心  4               

    執筆原稿

 

           編著     小 林 隆
           謹撰謹緝  小 林 隆
           發行     伝承文化研究所



*第百二十二代 明治天皇御眞影 

明治天皇  (百二十二代天皇) 

 明治時代 

*本日(七月三十日)は明治天皇祭になります。
 明治天皇樣の崩御された日です。



 先づは、明治天皇樣に於ける
 その御治政に於ける幾つかのエピソードを
 ご紹介させていただきます。


一、日常生活に於かれては質素を旨とされ、
  いかに寒い日であつても
  暖房は火鉢一つだけなど、
  自己を律されること峻巖であらせられた。

  その顯著な例として、
  赤坂の東宮御所(現在の迎賓館)の
  完成の報告をしに來た設計者の片山東熊に

  「あれは華美すぎる」

  とお喜びになられ無かつたといひます。



※赤坂迎賓館


一、大元帥として軍隊を統帥されたが、
  兵士達と苦樂を共にするといふ信念を持たれて
  日淸戰爭に於ても広島の大本營に移られた時、
  暖炉も使はれず、一切の装飾も施されず
  殺風景な部屋で執務を續けられたといひます。

  こうした事は、晩年御自身の體調が
  惡化された後も崩れることが無かつたと傳へられます。



*広島大本營での明治天皇


一、西洋の文物に對しては
  懷疑的ではあつたが、殘すべき文化は殘し、
  採り入れるべき文化は採り入れるといふ態度を
  しつかりと取られてゐたといひます。

  それを表はした御製は次の大御歌になります。


よきをとりあしきをすてゝ外國とつくに
    おとらぬ國となすよしもがな

《歌意》
 善いことは採り入れて、惡き事は捨てて採り入れる事なく、歐米諸國に劣らぬ國としてゆかうではないか。


 斷髪脱刀令が出された明治六年三月には
 御親ら斷髪された事で
 國民もそれに倣ひ普及したといふ事です。

 更に、奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以來、
 御皇室では一切食されていなかつた
 牛肉と牛乳を自らすすんで採られて、
 新しい食生活のあり方を示されました。


一、日本刀の愛好家と知られ、
  明治十四年の東北ご巡幸では
  元米澤藩の上杉家に立ち寄られ、
  ご休憩の時、上杉謙信以來の
  名刀の數々の閲覧に夢中になられて、
  翌日のご予定を取りやめてしまはれました。

  以後、舊大名家の刀剣の獻上が相次ぎました。
  結果的に、これらの刀剣は崩御後、
  國立博物館に納められて、
  重要刀剣の散逸が防がれたといひます。



一、皇女の東久邇聡子樣の御証言では
  「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通されて、
  その後朱筆で疑問點を書き入れられて、
  内容をすべて暗記され、
  次の書類との整合性がないと
  必ず注意されたといひます。
  伊藤博文は、よく前言との違ひで
  叱責されたといひます」


 さて、日本文化傳承に於ける
 大きなご功績は和歌文化を
 こよなく愛されてをられた事が先づ擧げられます。


 そのお作りになられた御製の
 その數は十萬首とも言はれ、
 歴代天皇の中に於ても飛び抜けてをられます。


 昭和天皇の和歌指導を行つた
 歌人木俣修は次のやうに述べてゐます。


「歌數だけで歌人の價値を
 決定することはできないにしても、
 生涯に十萬の作を爲したといふ歌人は
 古今を通じて明治天皇
 ただお一人であるといつてよい。

 しかも、それは風流韻事をこととしてゐる
 閑人ならいざ知らず、
 新生日本建設の爲に
 あらゆる困難を成し遂げた
 帝王の座にあつての仕事であつた。

 その繁忙は想像を絶するほどの
 ものであつたと思ふのであるが、
 その中で超人的なこの歌人として
 ご業績をのこされてゐるといふことは
 偉大なことであるといはなければならぬ」


 また、米国人にして日本文化研究の第一人者といはれ、
 『明治天皇』を著された
 ドナルド・キーン氏は次のやうに言ひます。


「明治天皇を知る一つの方法は
 天皇の御製を讀むことであり、
 そこには天皇の自傳的な
 興味の片鱗なりとも含まれているし、
 折にふれての天皇のお気持ちも
 うかがうことが出來る」



(次回に續く)