本稿は、4月27日の續きになります。
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皇后宮
(きさいのみや)陛下に學ぶ美しい心  その一



《皇后様ご発表の最初の御歌》




 (昭和三十四年)


てのひらに君のせましし桑の実の
    その一粒に重みのありて


 この御歌は、御成婚後、陛下と赤坂御所内を散策されて、陛下より桑の実を一粒手のひらに乗せて頂いたことを詠はれたものと思はれます。

 御成婚二十五周年記者会見に於ける記者の「二十五年のご生活で特に印象に残っていることは」との質問に、


□皇后陛下の御言葉。

「御所に上がってすぐのころ、まだ常磐松のころ、コジュケイの鳴いている朝の庭で、 アスナロ、ヒノキ、サワラなど、木曾の五木のことを教えて頂いたり、ヤマグワの実を取って掌にのせて頂いたことなど、よく思い出します。」

 この昭和三十四年に発表された御歌は冒頭の御歌の他、次の二首になります。



  常磐松の御所

黄ばみたるくちなしの落花(らくくわ)(ついば)みて
  椋鳥(むくどり)来鳴く君と住む家



土の上に出でしばかりの眠り草
  触れて閉ざしめ朝遊べり
 

*眠り草 … オジギソウの別名。



*皇后様のこの御歌についての前女官長であった松村淑子氏は、天皇陛下に対して皇后様の接せられるお姿について次のように述べられおられます。

「皇后様はいつも陛下の御存在を尊くお考えでいらっしゃいましたので、木の実や枝を取ってお頂きになった日常のふとした出来事も、この上なく嬉しい思い出として、大切に心におしまいになったのでございましょう。陛下への礼を美しく保たれ、このお姿は、お仕え申し上げた二十年の間、全く変わることがございませんでした。そして、まだご婚約前のご交際時代、陛下の仰せられた「皇太子という立場で、公務は一切私事に優先する」という御言葉をお忘れになることなく、未来の象徴とおなりになる陛下のお立場を、いつも深く認識なさっていらっしゃいました。」


*皇后様が作歌の指導を正式にお受けになられるようになつたのは、昭和三十四年、皇太子妃教育としての必須十一科目の中の一つとして歌人であつた五島美代子夫人のご指導によって行われたといふことです。


 その初めてのご指導の時五島夫人は次のように申し上げたとのことです。


「ご自分の身分も忘れて、醜いところをも含めて神に告白する気持ちでお歌いになるのではなければなりません」

と教えられたそうです。



【皇后陛下御言葉】

 初めてこの意識を持ったのは、東京から来た父のカバンに入っていた小型の本の中に、一首の歌を見つけた時でした。それは春の到来を告げる美しい歌で、日本の五七五七七の定型で書かれていました。その一首をくり返し心の中で誦していると、古来から日本人を愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われました。 
     ――皇后陛下『橋をかける』より

この師弟の御関係は、五島夫人逝去までの十七年間、甘えのない厳しさをもって保たれたそうです。


ですから、五島夫人逝去の時、皇后様は次の美しい挽歌をお作りになられました。

み空より今ぞ見給へ欲りましし
   日本列島に櫻咲き継ぐ
 
    (昭和五十三年)



 この御歌は五島夫人の御霊前に捧げられたのことです。

 この五島夫人は、皇后様の和歌の御資質に期待を寄せられ大切に育まれたといひます。

 そして、皇后様もしっかりとお受け止めになられたと思ひます。

 夫人は、皇后様がご教授に受けるに古典の素養をしっかりと持たれ、すでに多くの和歌に親しんでいらしたことを、和歌の指導上非常に有難かったと、お話しされていたそうです。


 また、個人的にお作りになられたのは、終戦直後の疎開地に居られた小学生の頃であったということです。

 この頃お作りになられた口語体の御歌のまじった幾つかの御歌は,今も侍從職によって大切に保存されてあるそうです。
      ◎参考『瀬音』~刊行に寄せて~より




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