ひさびさにブログを書いてみる。つれづれなるままに、という心境だが、しばらく書かない時間が続くと本当に書けなくなるんだな、と今さらながら強く実感している。この1ヶ月を振りかえれば特に何か書きたいと思うものがないくらい心の内が静かであったともいえる。人生においてわずらわしいと思うものがないことがなによりの恵みと思えるようになった今日このごろ、書かなくては、書かなくては、と、無理に心をかきたてる必要もないのではないか。そんな思いも横切る。

最近は本もあまり読まなくなってしまった。読もう読もう、と思う本は自宅の本棚にいくつか置かれているのだが、なぜかまったく手が伸びずにいる。

こんなんでいいのかな、と思うけど、読めないのだから仕方がない。

自然体でありたいと思う。さまざまな願望も目標も必要とあらばおのずと現れてくる。努力はもちろん大切だが、日々できることはどうしても限られてくる。夜はうまい酒に浸りたいし。

金のことはともかく、40代は仕事の時間を楽しめていることが大きい。なんやかんや言っても1日の大半を占めるのが仕事。教えるという仕事を始めてはや10年に達しようとしているが、日々の仕事に全力で注力することだけでも我が人生、十分なのだといえる。

が、生きる中で自分の身に余るほどさまざまな体験を頂きながら得たものをどうにかして様々な人に伝えたいという気持ちもまたあり。。。


まず生きているだけで十分である。ただ十分ではなく十二分にも十五分にも人生において豊穣なる時を刻みたいと思うのだ。

突然ですが、平凡な日常生活をいかに楽しむか。人生やっぱりこれに尽きるのではと思います。楽しく生きる秘訣は古今東西さまざまで、私も剣術映画文学などなど興味は尽きないわけですが、結局は「日々いかにうまい麺料理を味わうか」ということに日常生活の多くが占められている気がします。いきなりなんでやねん!というツッコミが各方面から来る予感がしますが、なにがあろうとうまい麺料理が味わえれば満足。食欲はやはり生きる活力ですね。


麺料理と広く構えてみましたが今のところ私の麺食生活はいわゆるラーメン、たまにそば、うどん。このシリーズが発展したら大きく構えた理由が見えてくるかもしれません。


僕が麺料理に走るようになったのはとにかく環境がそうさせたといえる。高校時代には母校の近くに「中国料理 中本」、.そう、現在の「蒙古タンメン 中本」の先代、中本正氏が経営していた中華料理店があった。大学時代はやはり母校の正門のすぐ近くに「ラーメン二郎」の本店があった。

社会人は横浜に住むことになったが当然家系を嗜み体重が爆上がりする。


というわけで「ラーメン御三家」を20代のうちに体験してしまったわけで今でも米よりは麺が食のメインになっている。ところで日本人として生まれた我々はなんとはなく米を喰わない生活に罪悪感を覚えることはないだろうか。ご飯と味噌汁、漬物が日本人の食卓というような固定観念がいまだに頭の中をめぐっている。

麺生活はそんな古くからの固定観念を打ち破るべく、禁忌に挑戦するかのような日常生活における激しい戦いなのかもしれない。

さあ、今日も麺をすすろう。



今日は群馬に住んでいる塾の仲間と稽古する前にに新陰流の流祖、上泉伊勢守信綱のルーツの地である群馬県前橋市上泉町を訪問。



まずは腹ごしらえということで。近くの蕎麦屋さん「かつら」さんに入る。



お店の名前と「上泉伊勢守生誕の里」との文字を一緒に表記。民家でもこのような表記をたくさん見つけた。町全体で上泉伊勢守の存在をアピールしている。


久しぶりに食べた手打ち蕎麦だが、とても美味しく頂いた。せいろ2膳で頂いたが1膳との料金の違いがわずか100円ってコスパ良すぎてありがたい。


伊勢守の菩提寺である西林寺へ。



伊勢守の墓所の前にあった略譜。「尊天の感応」という言葉が印象に残る。我は凡人なれど日夜工夫の精神を身につけて少しでも「流儀の薀奥」に近づきたい。

武術の天才だった伊勢守ですら工夫鍛錬の毎日だったわけだから簡単ではない道である。


住職さんにご挨拶してお寺の本堂を開けていただく。当寺は新陰流を探求する武術家がしばしば奉納演武させていただく場となっている。その奉納演武の記録を示す額が本堂にたくさん飾られていた。


額には奉納演武に参加した人々の名前が刻まれている。どこかで聞いたお名前もいくつか見受けられたが、今思うと私も新陰流の探に勤しむ1人なんだと、心を新たにしなければと思った。


上泉伊勢守信綱師が創造されたこの奇妙をいかにこの世に伝えるか。まずは自らの精進あるのみだが。。。




昨日は昨年から参加しているRHKのよさこい踊りの練習に参加した。今年から筋トレとストレッチが取り入れられたが、真面目にやるとかなりきついが追い込むのは嫌いじゃないので高校時代の部活を思い出しながら楽しんでいる。


もう40代半ばをとっくに過ぎたがおかげさまで身体はまだまだ動く。無理すると疲れるが演劇から舞踏、剣術とさまざまやってきたせいか、身体のキレは今が1番?かもしれない。


ストレッチも息を吐きながらやると可動域はぐっと広がる。「自分で勝手に固めているだけ」とトレーナーの人は言っていた。筋トレもがむしゃらにやるというより効いている部位と対話しながら緊縮だけでなく脱力も意識して行う。ストレッチして可動範囲が広がってくると筋トレしていても身体の感覚が鋭敏になって気持ちよくなる。

ダンスする上で適度な筋肉と可動域の広さはメリハリをつけたり大きな動きを作る時に役立つ。こういう基礎練習をしっかりやって行けば本番はいい演舞が見せられるはず。それも楽しみの一つ。


頭の方では年齢とか金とか現状とかいろんなことで未来に制限をかけるのだけど、先のことなんて人間にはわからない。常に良き未来、希望を抱いて生きる。むしろ身体の声をもっと聞いてあげながら生きていくのが今年下半期の大きな目標としたい。

昨日の稽古は浮沈と半開半向の型稽古をひたすらやった。できたこともあったが、できないのだということをひたすら味わった時間が長かった、流儀はとにかく厳しい。100か0しかない。どんなに鍛錬しようとできないものはできない。そんなことを改めて思い知る。いずれにせよ一つ一つ丁寧に稽古することだと思う。いい加減なことはしない。結果にとらわれずに自分が信じる新陰流の流儀に従うだけだと思う。

頭はわかっているのにできないことに苦しんだ時期は通り過ぎて今は教わったことをしっかりとやり切れているかどうかを見つめながら、自分の中でもさまざまな工夫をしなくてはいけない。

上達には工夫が必要、とずっと師から言われ続けてきたが今まで本当に意欲を持って工夫したことはなかったと思う。

幸いなことに新陰流に対する執着の心は持続している。なんとしてでも手にしたいと思うならどんなにできなくても恥ずかしい思いをしようとも、苦しい思いをしようとも、自ら流儀としっかりと向き合いながら流儀に従える自分になれるよう努力工夫したいと思う。



昨夜は高校時代のラグビー部の同期と後輩と都内某所で再会。同期については約20年ぶりの友人もいた。後輩については高校卒業以来になるから約30年ぶりである。何でこんなに会わなかったかというと、僕が娑婆の世界からかけ離れた生活を長く送ってきたことが大きいと思うがよく今回会えたな、となんだか神様のいたずらを感じてしまう。

みんなから名刺をもらったがみんな一流企業で、中には雇われではあるが40代で社長の肩書を名乗る奴もいてびっくりした。一方同期で亡くなった人もいると聞いて人間の因縁の深さを実感するとともに今生きていられることへの感謝を新たにしている。


話すことといえば、やっぱりラグビー部の話が多くなるが、昔のことになると友人の方がよく覚えていて自分がとっくに忘れている話に出会えるから面白い。いつの日か、雨の日の試合で前半でボロ負けしている中、1人蚊帳の外で全くユニフォームが汚れていなかった私がハーフタイムに顧問に怒られるのを恐れてすっかり水浸しになったグラウンドの上を数回ゴロゴロ転がってわざと汚したという話は、あ、確かにやった気がする、と記憶が蘇った思いがした。


今朝も嬉しかったせいか、職場のスタッフの人に思わず昨夜のことを話していた。

何で今までそんなに会わなかったんですか?とか今回会えたのは何か意味があるのかも?とか言われたが、もしかしたらそうかもしれない。同期会、ビジネス、意外な人脈につながるとか、ともかく今後の展開を眺めていきたい。




「帝銀事件」という出来事を知っているだろうか。いまだGHQの占領下にあった昭和23年、帝国銀行椎名町支店、現在の豊島区長崎、現在も西武池袋線で椎名町駅という名が使われているが、突然その銀行の支店に現れた初老の男性が周辺地域で集団赤痢が発生したと称して行員に予防薬を飲ませて12人を毒殺した事件である。

一昨日たまたまYoutubeを開いたら帝銀事件を扱った映像がアップされてきた。


映画会社の松竹が無料で公開している映像で、映画かと思ったらテレビ朝日と共同で製作したテレビドラマらしい。ともかくこれは見なくてはと昨日仕事の合間に観賞した。



じゃーん、知る人ぞ知る田中邦衛である。もう亡くなってしまったんですね。そもそも今どれくらいの人が彼を知っているかわからないけど一般的にはフジテレビの「北の国から」の五郎役といえば通じるのかな。私は「仁義なき戦い」の槙原政吉役のクレージーかつ風見鶏的な策士のキャラクターの印象が強く本作品では古志田警部補役で出演しており、帝銀事件の被疑者として逮捕した平沢貞通に厳しい尋問をかけていたぶる。戦後間もない頃だからまだ特高時代をひきづっている刑事も多かっただろうから実際は映像以上の尋問だったかもしれない。


平沢貞通といえば日本犯罪史の中でも屈指の人物といえる。私は中学時代松本清張氏を通じて帝銀事件を知った。松本清張氏のノンフィクション作品といえば「日本の黒い霧」が有名だがこの作品ではなかった気がするがともかくこの平沢貞通の数奇な運命は中学生だった僕の心を惹きつけた。


本作品では仲谷昇という俳優が平沢役を演じている。なんとも素晴らしい怪演である。仲谷昇はフジテレビの「カノッサの屈辱」の印象しかないのだが平沢の変人ぶりをいかんなく現していたように見えた。


本作品含めこの「帝銀事件」には特筆すべきところがありすぎてとてもではないが全てを書ききれないので今回はまずこの辺りで。ともかく恐れを知らない読者の方はまず本作品を視聴してみてほしい。シリーズ題名もとりあえず仮で。

週末土曜日は新陰流稽古。久々に師と一対一の時間が多くて緊張した。


「浮沈」と我々が呼んでいる身体操作がある。天地から、もっとわかりやすく言えば身体の上下両方から作り上げる力の作用を太刀全体に伝える方法について模索している。わかりやすい言葉を探して表現してみたが、上手く説明できないのがもどかしい。

体術、身体と身体なら浮沈の作用さえ作れば相手にその作用を伝えるのはそれほど難しくないが、刀が介在すると途端に難しくなる。刀を持つことで斬るという意識が顕在化するのが常のことで切先に意識が向くことで切先が下に向かう円運動になってしまう。

刀で崩すということは斬ることとは別次元である。切先に意識はなく刀全体を使って相手を崩すのである。

そのためには上半身よりも下半身から立ち上がる意識、師と稽古して最後はだいぶつかめた。あとは刀との接点となる手の内。改めて鍛え直したい。身体をいじめ倒したい2024年の夏。

昨日の地理の授業での出来事。テーマがロシアの地理だったのでシベリア鉄道について話した。ウラジオストクからモスクワまで約7日かかること、風景もあまり変わり映えしないこと、シャワーやトイレも旧式のままの車両があること、だれがのってくるかわからないこと、これが僕にとってはリスクと感じたんだけど、聞いてくれていた生徒は面白そうだ、いつか乗りたいと言っていた。

この違いはなんだろう。年齢の差と片付けられない何かを感じている。僕は予想される危険があればそこには向かわない。彼は危険があることを承知でそこに向かう。世界を開くということにおいてこの差はあまりに大きすぎる。一度きりの人生。ちょっとした危険にびびりたくない。

ここ数年世界史や地理を勉強することが習慣になったがやっぱり現地に出向いて見てみたいという気持ちが出てくる。


昨日は本当に久しぶりに時間の余裕ができて本屋に立ち寄ったが、歴史コーナーで宮脇淳子氏の「満洲国から見た近現代史の真実」を見つけて2時間近く立ち読みしてしまった。内容としては満洲国そのものについてはあまり書かれておらず、近現代史の解説も聞いたことのあるような内容ばかりで正直物足りなかったが、満洲の地理的な情報の説明を聞くとワクワクしてくる。大興安嶺山脈を挟んで東側が満州で西側はモンゴル高原。瀋陽や遼陽という土地でモンゴル人と満州人、かつては女真、女直といったが、お互い交易を行っていたという。女真族は狩猟民族として有名だが世界的にも珍重されたのが満州の地にいた動物の毛皮でかなり高価な値段で売買されていたらしい。川も中ソ国境の一部をなすアムール川から松花江、牡丹江など豊富な支流が日本海、渤海、黄海などに流れ込む。そんな雄大な自然をいつか目にしたいものだ。


日本人は日露戦争で旅順、大連の租借権および両都市を結ぶ長春以南の南満州鉄道の経営権力を獲得したことを皮切りに現地に関東都督府と南満州鉄道株式会社、いわゆる満鉄を設立し満洲経営に乗り出していく。満州事変は現在の日本の歴史教育は侵略行為と否定的に説明されるが、一方宮脇氏は満洲の国家的価値、つまり日露戦争で日本国民が命をかけて手に入れた土地であるとともに、本土から満洲に夢を描いて移住した日本人はもちろん、朝鮮、台湾とともに当時の日本本土の経済にとってもなくてはならない土地であったこと、また共産革命を掲げる北方のソ連から中国本土を守るのは中国統一にこだわる南京国民党政府には至難の業でソ連の南下を防ぐためにも関東軍が満洲全土を確保することを何よりも必要だったことを指摘している。有名なリットン調査団の報告書でも日本が満州利権を確保する必要性については一定の理解を示している。


満州国についても関東軍の傀儡政権という一般的な見方に全く異議を唱えるつもりはなく、関東軍の暴走と日本の戦況の悪化によって崩壊の道をたどっていた。


しかし満洲人の根拠地に満洲国ができたことは溥儀をはじめとする清王朝関係者に王朝再興の道筋ができたことは確かであり、満洲国が謳った「五族共和」のスローガンはかつての清王朝がモンゴル、青海、チベット、新疆に住む人々に自治と現地文化の維持を認めた藩部支配を呼び起こさせる。

うまく行かなかったという結果だけを見るのではなく、このような清王朝の優れた制度を意識して移植させた人がかつての日本人の中にはいたのだろうか。そして本当にその夢のために生きた日本人がいたとしたら。。。