旅行記その3

東北に行くのならボランティアをできないかなと思ってたので。


※ボランティアへ行かれる方は保険に入っておいてください。
 
参考記事 → 【ボランティアの基礎知識】『ボランティア活動保険』ってなに?


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今回、こちらに行ってきました。

農業復興支援ボランティア大募集!(収穫祭)

仙台から常磐線で南に下りて約30分の亘理駅へ行き、

そこで地元の方にお願いしてもらっていた車に乗り、畑へ。


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ひたすら摘む。

地べたに腰をかがめながら摘む。

途中、休憩をしながら摘む。


そして、トマト食べ放題。

熟れているものでも度が過ぎたものは出荷できないということなので、

ありがたく人間様がいただく。

めちゃくちゃうまかった。

だって朝摘みどころか摘んで1分以内で食べるので鮮度抜群だし、

もともと塩害を受けているので地面の塩分を吸って育ってて、味が濃い。



あぁ。書いててまた食べたくなってきた。(笑)

そんな感じで



かごいっぱいに何回も摘んで、時々つまみ食いして、

日に焼けて汗だくになりながら、作業終了。


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その日に泊まるお寺さんに行くまでの間、色々なお話を聞きました。

現地で見たことなども含め、生の情報を書こうと思います。



冒頭ではさらーっと書いたけど、

亘理駅から先の南側は未だに復旧しておらず、

途中、雑草が生えてる線路を見たりしました。

幸い、まだ線路がキレイに残ってましたが、さらに南側だと駅舎も破壊されているそうです。

復旧計画はこちらで。→ 常磐線の復旧について


他にも遠目から仮設住宅を見たり。

洗濯物だったり、住んでる方々だったり、郵便局だったり、コンビニ(だった覚え)だったり、

ひとつの街として完結されていました。


あとは、津波そのものの話。

畑仕事をしてる時、海の方を見ても視界を遮られなかったのですが、

防砂林がかなり流されてしまい、点々と残ってるだけでした。


(一番ひどかったところ。)


あとは、

高速道路(常磐自動車道)が防波堤となって、

そこを境に床上浸水か床下浸水かがかなり変わったそうで、

この辺の主要産業であったいちご栽培で建てた

通称いちご御殿が全部流された人もいたそうです。

さらに、地盤沈下の影響でしばらくは腰まであった水がひかなかったり、

丸太などが転がってたのを様々な地域の人(消防だったっけ)がキレイにがれきを処理してくれた話などなど。

少し面白かったのが、

学校を建てた時、体育館があまりに大きいので税金のムダだと言ってたのに、

今回の震災で役に立っちゃった。と言ってたこと。


こちらとしては聞きにくいから話してくれたのはすごくありがたかったです。


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そんな感じでこの日は行持院というお寺さんにお世話になりました。

避難の5人生活保護決定 亘理「生活苦駆け込み寺」 

宮城県・行持院(ぎょうじいん)と眞壁太隆さん

どちらも記事自体は震災前の物ですが、

今でも自分のようなボランティアの人や、生活困窮者のために

寝るところとかお風呂だったりを貸しています。


その日の夜、

河北新報特別縮刷版 3.11東日本大震災1ヵ月の記録

という本を少し読みました。

ひたすら新聞記事を日付順に並べてるだけ。

でも、その威力は凄まじい。生々しい。

あの頃の感覚を久しぶりに感じました。


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翌日も起きてひたすらトマトを摘む。




この日はお昼に近くにあるひまわり畑へ行きました。

6月頃にみなさんで植えた種が満開になってました。



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最後はくだけた話として、方言の話を。


共通語の捨てるを"なげる"と言う。

ってのを北海道の先輩が言ってたんだけど、

この辺でも言ってました。


あと、

宮城県内でも地方差があって、

特に仙台より北側だと今でも訛り方が強く残ってて、

同じ宮城県人でも理解不能だそうです。(笑)


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仙台駅に戻り、おみやげを買って、

最後のご飯はやっぱ牛たんを食べようということで、

利久というお店でシチューとトマト煮をいただきました。
(写真撮り忘れた。)

そして、夜行バスに揺られ、帰りました。


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最後にまとめ記事を → 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也


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* min
BGMはチャットモンチー
ライブDVDというものをちゃんと見たのはそんななくて、
久しぶりに楽器弾きたくなった。