おわらないたび

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年明け早々『ドキュメンタリー映画 
100万回生きたねこ』の上映で中国に向かう。韓国、イタリア、UAE、アルゼンチン、タイ、ドイツに続き7カ国目となる今回は、Indie Screening Alliance of Art Spaces (ISAAS)が主催する上映展。北京、西安、合肥、天津、広州、大連などの主要都市を巡回する。

最初に訪れたのは広州。“食は広州に在り”ということわざがあるように、食材を生かしたヘルシーな広東料理はとても美味しく、点心をつまみながらお茶を飲む習慣は優雅で旅の疲れを和らげてくれた。



会場は、高層マンションの最上階にある美術館で、窓からは胡同の洗濯物が風に揺れるのが見えたり、昼食の匂いさえ漂う不思議な空間だった。とは言え、内装は現代的で例えるならワタリウム美術館のような雰囲気。映画の撮影で訪れた北京もそうだったが、都市空間から受ける印象はアンビバレンスで、趣のある地から道を一本隔てただけで高層ビルが立ち並んでいる。撮影中に場所や時間の境界線を失ったのを思い出した。ISAASの代表、张献民さんが「君の作品を選んだのは、生と死が表裏一体に描かれていたから、いまの中国で上映する価値を感じたんだよ」と言ってくれた。



次の日、大陸を横断して大連に移動。直ぐさま、満州鉄道跡地に足を運ぶ。通称、満鉄は日露戦争後の1906年に設立され、1945年の第二次世界大戦の終わりまで存在した日本の特殊会社である。今回の旅の目的のひとつとして、満鉄跡地を訪れたいと思っていた。それは、北京生まれの佐野洋子さんが中国で最後に暮らした場所が大連であり、終戦後、彼女は大連から引き揚げ者となって日本に渡ったからだ。


大連港15号倉庫(満鉄の出発点)に向かう車が走る立派な並木道も、日本人が舗装したものであることを、上映展のコーディネーターの方が教えてくれる。目的地に着くと、そこは横浜の赤レンガ倉庫のようなお洒落なカフェが店を構える若者の人気スポットとして賑わっていた。また、はからずも近くそこでコーディネーターの方がバー&ギャラリーをオープンするそうで、まだ内装工事中の店を案内してくれた。

ガラス張りの店内からは海が一望できた。陽の光が海に反射して、寒色の海面一部が暖色に変わっていた。そのあたりをボンヤリ眺めていると
「アンタ、育った場所から、引き裂かれるのって辛いよ」と生前の佐野さんから溢れた言葉を思い出した。目の前に広がる海は、佐野さんが日本へと渡った海だ。感傷的になりそうだったので、ガラスの埃を拭き取って、どのような悲しみや憎しみに巡り合おうとも、それを冷静に像へと置き換えてきた作家に祈りをささげた。



ホテルで一時間ほど仮眠を取って、上映会場のライブラリーに向かうと壇上に行くのも困難なほど、大勢の観客で場内は溢れ返っていた。いつもながらたどたどしい挨拶の後、質疑応答に入ったが裕に予定時間を越えて、活気に満ちたやり取りは閉館間際まで続いた。中国は政府が映画(無論映画だけではないけれど)を厳しく規制しているため、一般の人たちが海外作品やインディペンデント作品を観れる機会が非常に限られている。そのような状況においても、どうにかして映画を上映しようとする人がいて、それを観たいと思う人たちが確かにいる。そのような人たちと接することができて嬉しかった。


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冒険

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子どもの頃、みんなが集うグランドや公園よりも人目につかない住宅のゴミ捨て場や工場で遊んでいた。みどりや光にあふれた場所よりも、なにか闇がひそんでいるように思える場所に誘われたからだ。

そこでは、“冒険”と題して(由来はきっと児童小説『エルマーの冒険』からきている)、数人の友だちと身の危険を感じる遊びをしていた。十数メートルの配水管を壁づたいに登ったり、(壁と配水管の間に足がはさまり消防隊に助けられたこともあった)錆びたドラム缶の中にはいって猛スピードで坂道を転がったり、廃墟化した工場と工場の間をピョンピョン飛び越えたりと一歩まちがえると命を落とすような危険を冒していた。

物事のギリギリのところまで行ってみたいという欲求はどうしても抑えられず、つき合ってくれる友だちがいない日でも、ひとり情熱をかたむけていた。大人からすれば、それは自虐的で異常な遊びにも見えるのだろうけれど(実際にスクールカウンセラーのもとに連れていかれた)、当時のぼくにとって“冒険”は、全身にイナズマが走るかのような素晴らしく官能的な行為だった。あの頃、なににそこまで飢えていたのだろうか…、と思い返しても今とかわり映えしなかった。

自分の身体を境界線の淵まで持っていく未知なるものへの追求は、思春期にはいると内面というフィールドに舞台を変え、それが過ぎると映画という表現方法を見つけ出し、心身ともになお一層大きな闇に誘われながら“冒険”し続けているからだ。今年中に新作が発表できそうだ。嬉しいかぎり。


◯ドキュメンタリーの対象者(出演者)を随時募集してます。ご興味のある方はぜひご連絡ください



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35歳

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(釜山国際映画祭/写真・伊藤華織)

韓国、イタリア、UAE、そして国内では
128日から『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』の公開が始まっている。舞台挨拶でもお話している内容を此処でも記したいと思う。


この映画のタイトルと同名の絵本『
100万回生きたねこ』は、今年で35周年を迎えた。偶然にもぼくは絵本と同い年、今年で35歳。

わが家は、決して裕福な家庭ではなかったが、母はぼくが眠る前に必ず絵本を読んでくれる人だった。ねこの生涯が複雑に、しかしシンプルに描かれた『
100万回生きたねこ』は、とても忙しかった母親とつながっている証のひとつだった。本書について幼心に憶えているのは、「世の中には“死ぬ”というものがあるのか…」と思ったことだ。それは灯りを消しても忘れることのできない記憶となった。

その後、祖父母や友人など、身の回りの人たちが“死ぬ”たびに本棚から埃のかぶった『
100万回生きたねこ』を取り出した。ゆっくりとページをめくるだけで、無念さや断絶感などの暗くて重たい気持ちが和らいだからだ。そのようなことをくり返しているうちに、ぼくの中で『100万回生きたねこ』という絵本が大きくなっていた。

2009
6月、ぼくは『100万回生きたねこ』の作者である佐野洋子さんの前に立っていた。ぼくが佐野さんを主人公にしたドキュメンタリー映画の製作を切願したからだ。佐野さんは初対面のぼくをジッと見て、「アンタ、わたしが死ぬこと、どう思ってるの?」と凄みのある声で言い放った。当時、ガンで余命宣告を受けていた佐野さんの問いに、ぼくは何も答えられなかった。“死ぬ”を教えてくれた絵本の作者に、何ひとつ答えられなかった。

佐野さんとは世間話をさせてもらえる仲になったが、出会った日から
1年半で佐野さんは死んでしまった。それから4ヶ月後に震災が起ってたくさんの人が死んだ。製作期間の3年間を振り返ると、言葉を忘れたように黙ったまま佐野さんの問いの答えをずっと探していたように思う。「アンタ、わたしが死ぬこと、どう思ってるの?」という問いの答えとして、ぼくは『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』を作った。

ささやかな表現でも誰かに届いてほしい。

<渋谷シアター・イメージフォーラム/トークイベントのご案内
>

1220日(木)
19:00の回上映後:唐亜明さん(編集者小谷監督


1222日(土)19:00の回上映後:砂田麻美さん(映画監督/『エンディングノート』小谷監督

1227日(木)
19:00の回上映後:藤岡朝子さん(山形国際ドキュメンタリー映画祭ディレクター)×小谷監督

16日(日)
15:00の回上映後:諏訪敦さん(画家小谷監督






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堤の映画祭日記

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『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』で、ながきにわたり助監督を務めてくれた堤健介くんが映画祭日記を書いてくれたので、ここでも紹介させてもらいます。

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釜山へ向かう大韓航空の飛行機の中にいた。窓際でなく中央列のシートに座れてホッとしたものの、高所恐怖症の僕は機体が揺れる度に身を固くしていた。つい二時間ほど前に成田を飛び立った飛行機は、もう着陸体勢に入ろうとしている。小谷忠典監督は隣に座った取材対象のキャストと何やら喋っている。小谷監督はビジュアルアーツ専門学校・大阪で講師をしていた時期がある。丁度、その時期、僕もビジュアルアーツの学生で小谷監督の顔を見知っていたが、直接授業を受けることも、話すことも無く、そのまま卒業してしまった。その後、いろいろなご縁があり、ポレポレ東中野で公開された小谷監督の『LINE』の宣伝活動を手伝うことになり、それが助監督として本作品に携わるキッカケになった。わくわくと旅行ガイドを読んでいるのは、プロデューサーの大澤一生さん。『LINE』は、小野さやか監督『アヒルの子』とのカップリング上映だった。同じ家族を扱ったタイプの全く違う作品を同時公開することで、ふたつの作品をどちらの客層にも届ける。そのアイディアを考えたのが大澤さんだった。結果、『LINE』も『アヒルの子』も大盛況だった。今、大澤さんは複数の作品を製作・配給している。その小谷監督と大澤プロデューサーが組んで完成された『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』が、お隣の国・韓国で開催される釜山国際映画祭でプレミア上映されることになったのだ。釜山空港のタクシー乗り場へ行くと、どやどやと現れた運転手たちが激しい口調で客の取り合いをする。なんとか、タクシーへ乗り込んだ一行は映画祭の会場へ向かう。高速を走るタクシーの荒々しい運転には頭がクラクラした。もの凄い勢いで流れ去っていく風景は、日本とよく似ていたけど、ハングル表記や街の雰囲気の違いで、ここは違う国なんだと感じた。ほどなく、韓国最大規模となる釜山国際映画祭が開催される海雲台(ヘウンデ)地区へ到着する。『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』の上映会場はセンタムシティという巨大な百貨店にあるCGVというシネコンだ。にぎやかな会場へ着くと、日本語の堪能な映画祭スタッフにチケット売り場まで案内してもらう。人数分のチケットを購入しようとすると、ソールドアウト状態。前列の数席しか残っておらず、驚く。上映時間も迫った頃、映画の出演者である女優・渡辺真起子さんがチームと合流する。初のお披露目。観客はどう反応するのか。小谷監督たちが緊張した様子で上映後の質疑応答の打ち合わせをする中、キャストさんたちと開場の始まった劇場へ入る。客席の埋まった劇場へ入って驚いたのは、そのスクリーンの大きさだ。思わず、「大きいね」という言葉が皆の口からもれる。そんな大きなスクリーンで、長い間スタッフとして携わってきた映画が披露されたのだった。上映後、劇場の灯りが点くと、盛大な拍手がわきおこった。「あんた、私が死ぬということをどう考えてるわけ?」――絵本作家・佐野洋子のもとを訪れた小谷監督は、いきなりそう問われた。ガンによって余命幾ばくもない佐野洋子からの問いかけ。その問いの答えを、映画を撮ることで見つけようとした。そのことを舞台に立った小谷監督が語った。小谷監督と観客のやり取りが、まるで通訳の時間を惜しむように続けられ、時間はあっという間に過ぎてしまった。質疑の後も、小谷監督のもとへやって来る観客の方がたくさんいた。





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目覚めると、ホテルを飛び出し、タクシーを拾い、映画祭の会場へ。マーケットへ行く小谷監督たちとは別行動だ。昨晩のうちに鑑賞する映画は、英語とハングルばかりのカタログから目星をつけてある。タクシーを降りると、目の前には目的地の釜山国際映画祭の象徴ともいえる「映画の殿堂」がそびえたつ。映画のために作られた巨大な建造物には空いた口がふさがらず、うっかり迷いこんでしまった四千席もある野外劇場にはめまいがした。ほかの会場も巨大な百貨店や娯楽施設にあり、映画祭への力の入れ様が感じられた。いろんな層の観客を見かけたけれど、若者が一番多かったような気がする。目的の映画のかかる劇場へ入ると、上映を待つ間、周囲を韓国語が飛び交う。客席の埋まった賑やかな劇場で、とても自分が浮いた存在であるような変な気分になったが、ひとたびスクリーンに光が投影されると、そこはいつも通っている映画館と変わりが無くなる。みんな、おかしければ笑うし、悲しければ泣く。言葉が違うだけで、この人たちは自分と何も違わないのだ。それから、散々映画を観て、集合場所である小谷監督の宿泊するホテルの前へ移動。一年ほど前からソウルで役者として活動する小鹿敬司さんと合流。小鹿さんは僕と小谷監督の共通の友人であり、10日の上映にも駆けつけてくれた。韓国語が喋れることから、案内を引き受けてもらった。キャスト・スタッフ全員集合し、小鹿さんの案内で通りにある韓国焼肉の店へ行く。食後は全員で夜の海雲台ビーチへ。パスをかけた映画祭関係者の姿もちらほらと賑やかだった。ビーチに設置された映画祭のパネルの前で、伊藤さんに集合写真を撮ってもらう。伊藤さんは映像関係の撮影・照明もやっているが、本業は写真家だ。伊藤さんは今回、舞台挨拶や釜山映画祭のレポート撮影も行っている。ホテルへの帰り道、映画『ヴィダル・サスーン』の監督、クレイグ・ティパーと遭遇。新作をひっさげて映画祭へ来ていたのだ。本人を前に感動するものの、緊張しすぎて近寄ることすらできなかった。





1012
見逃していた『ライク・サムワン・イン・ラブ』(監督:アッバス・キアロスタミ)を映画の殿堂で鑑賞。その後、製作補佐の光成さん、編集の辻井さん、伊藤さんでCGVへ移動していると、韓国のおっちゃんが親し気に絡んでくる。日本映画が好きだというので盛り上がる。が、なんのことはない宗教の勧誘だった。カフェで遅めの朝食。編集の辻井さんとキアロスタミの映画の感想を話し合う。そんな辻井さんがパソコンに向かって膨大な映像素材の前で黙々と編集作業する後ろ姿が職人のようで印象的だったことを思い出す。その日の『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』の上映は、舞台挨拶から始まった。「アニョンハセヨー」との小谷監督の韓国語の挨拶に満席状態の客席がなごむ。檀上に立ったのは、10日と同じく、小谷監督、渡辺さん、大澤プロデューサーの三人。「35週年の絵本で、僕と同じ歳です」という小谷監督の絵本の説明に客席から暖かい笑いがもれた。上映後にセンタムシティの書店へ行くと、なんと、絵本売り場にあった『100万回生きたねこ』が完売したとのこと。映画の効果なのかしら?すごい!その後、同劇場で渡辺さん出演の『おだやかな日常』(監督:内田伸輝)を観る。あるアパートに住む二人の女性の目を通して、311の震災以降の日本の姿がリアルに描かれていた。上映後の質疑応答には、渡辺さん、プロデューサー兼主演の杉野希妃さん、出演の西山真来さんが登壇。きれいな女優さんのならんだ舞台には華があった。震災後の日本の様子について語る渡辺さんの姿はとても凛々しかった。そんな舞台に立つ渡辺さん、『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』の渡辺さん、『おだやかな日常』の渡辺さん、それから今まで出演してきた映画の渡辺さん、どの渡辺さんも同じひとだと思うと、とても不思議な気分になった。





1013
閉会式の行われる最終日。閉会式にはパスを持つ関係者以外は入場できないらしく、大澤プロデューサーと光成さんがパスのない他のスタッフやキャストが入場できるように受付へ交渉しに行く。その待ち時間、小谷監督たちと海雲台ビーチでのんびり過ごす。ビーチからは映画祭のパネル等が撤去され、テナントの骨組みをトラックが運び去っていた。ふと見ると、共同プロデューサーの加瀬さんが砂浜で何やら拾っていた。加瀬さんの手にある瓶にはきれいな貝殻がいっぱい詰まっていた。加瀬さんは日本で待つ子どもたちのために貝殻を拾っていたのだ。加瀬さんは良きお父さんだ。お昼時、ホテルの近くにある海雲台市場でおでんを食べる。こっちのおでんは串刺しの練りものだけで具材のたくさん入った日本の煮込み料理とは違うようだ。おでんは値段が割と安いので学生の間食になっているらしい。みんながもりもりと昼食をとる中、大澤プロデューサーと光成さんが合流する。残念ながら、パスのない関係者は会場へは入れないとのこと。昼食後はお土産を買う時間。全員で地下鉄を使って南浦洞(ナンポドン)へ移動。ジュースの自販機のような切符の券売機に悪戦苦闘する。大勢の人々で賑わう南浦洞は、もともと釜山国際映画祭の開催地だった場所だ。前回から会場が海雲台に移り、南浦洞では前夜祭とイベントのみが行われるようになったそうだ。そんな南浦洞にあるチャガルチの魚市場を見学し、それぞれ自由行動。小谷監督、大澤プロデューサーにひっついて、出店の溢れた狭い路地を行く。軽トラの荷台いっぱいの靴下販売。偽造バッグの押し売り。手押し車をひいた野菜販売。時折、古着屋に入っては、品物を物色。こういう場所では時間なんて、あってないようなものだ。すぐに集合時間が迫る。待ち合わせの映画館前へ行くと、すでに辻井さんと待っていた光成さんがニヤッとハングルの『100万回生きたねこ』の絵本を見せる。この姉さんはぬかりがない。今回、光成さんは現場には直接タッチしていないが、持ち前の英語力を活かし、映画祭を含めた海外展開で映画を支えている。閉会式へ向かう小谷監督、大澤プロデューサー、光成さんや南浦洞で買いものをするメンバーと別れ、ホテルの前で待っていた小鹿さんと合流。映画祭の結果を楽しみにしながら、晩御飯を食べる店を探しに出かける。小谷監督たちがレッドカーペットを歩いている頃、僕と小鹿さんは海雲台ビーチ近辺を離れ、繁華街を抜け、住宅街をさまよっていた。スーパーの前にたむろするおっちゃんたちや、ジョギングをするおばちゃん、飲食店の前でおでんを立ち食いする若者たち、賑やかなビーチの近くとは違い、どことなく郊外の町といった感じで生活のにおいが漂っていた。韓国映画でよく坂道が出てくるが、とにかく坂道が多かった。息を切らしながら急傾斜の坂道を昇っていると、鍛えられたガタイの良い軍服のお兄さんたちに一瞬で追い抜かれてしまった。軍服の後ろ姿を見ながら、ここは徴兵制のある国だったと思いだす。何軒か飲食店の目星をつけ、みんなの待つ集合場所の駅前へ。伊藤さんがキャストの方たちのスナップを撮っていた。別々の人生を生きてきた人たちが映画に出演することで繋がっていた。そこへ、閉会式から戻って来た小谷監督たちと合流。聞くと、『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』は惜しくも受賞を逃したそうだ。少し残念だったけど、小谷監督のつむいだ時間がここまでたどりつけたことのほうが、やっぱり嬉しいと思った。『LINE』の宣伝活動をしていた公開までの半年間、小谷監督の提案で週に一度、光成さんの家にみんなで集まっては作戦会議を開いていた。宣伝のための作業はしていけど、自分たちの撮った映画を見せ合ったり、みんなでご飯を作ったり、普通の世間話をしたりと、まるで家族のようなチームになっていた。「せっかく、みんなで何かをやるんだから楽しくやろう」という小谷監督の言葉が今でも忘れられない。その仲間たちがそのまま『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』を支えるスタッフとなったのだ。「みんながこの場所へ来て、楽しんでもらえていたら、それで僕は満足です」映画祭から解放され、ふにゃふにゃになったお疲れ気味の小谷監督が言った。とても小谷さんらしい言葉だと思った。それから、お酒の飲めない小谷監督はコーラを片手に乾杯の音頭をとった。次の日の早朝、ホテル前で小鹿さんに見送られ、慌ただしく釜山空港へ向かう。日本への帰国だ。高速から遠ざかる海雲台を見ていると、まるで映画祭の四日間が夢のようだった。さあ、次は128日からの渋谷はシアター・イメージフォーラムでの公開だ!

(文・堤 健介)



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10月10日、スタッフ、キャスト合わせて十一人で釜山国際映画祭に向かう。そんなに大勢のチームで、日本から向かったのは、ぼくたちのチームだけだと思う。お隣の国、韓国ということもあって、作品がノミネートされた時から、できるかぎり『ドキュメンタリー映画
100万回生きたねこ』で苦楽を共にした仲間と一緒に行きたいと願っていた。なので、熱気に包まれた満席の会場で、これから育っていく映画を仲間と見守れたことが本当に嬉しい。無理を聞いてくれた製作部の方々に感謝。




空き時間には、プロデューサーの加瀬さんが「娘のおみやげに…」と、海を背にスーツ姿で浜辺の貝殻を丁寧に拾っていたり、深夜アイスクリームのケーキで、照明の伊藤さんのお誕生日会を開いたり、これまで出演者を映像でしか見ることがなかった編集の辻井さんが、出演者と談笑したり、助監督の堤くんが、日本では公開されないアジアの映画に感銘を受けていたり、そのような豊かな場面ひとつひとつに出会うことで、映像には映らない場面が、映っている場面を支えていることをあらためて実感した。



閉会式。ジャ・ジャクー監督や、キム・ギドク監督など、アジアのそうそうたるメンバーが顔を揃える中、歓声が飛び交うレッドカーペットをぎこちなく歩き、やっとの思いで席に着いた瞬間、ぼくの隣に座る渡辺真起子さんに声をかけるひとがいた。ぼくの後ろの席に座っているそのひとはどうやら渡辺さんのファンで、彼女が出演した映画について、熱く語りはじめた。



渡辺さんと一緒にいると、良くある状況なので、ぼくは振り向ことなく可憐な韓流スターの笑顔に酔いしれていたが、しだいにその優しいけれど、芯のある声がどこかで聞いたことがあるような気がしてきた。何とか記憶の糸をたぐり寄せるが、もう少しのところで思い出せない。何気ない素振りで、後ろを振り向くと、やはりそこには見覚えのある女性がいた。彼女はぼくと同じ、ディレクターのパスを首からぶら下げていたが、ぼくは彼女に「あなたは、映画に出演したことがありますか?」と聞いた。彼女は「一度だけ、あります」と応えた。「ぼくは、あなたの出演している映画が好きで、何度も観ています」というと、彼女は惜しみなくニコリと笑ってくれた。




映画のタイトルは、
The Flight of the Red Balloon(邦題:ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン)』。パリのオルセー美術館開館20周年記念に、台湾のホウ・シャオシェン監督が製作した。おもな登場人物は3人で、パリに住む少年と、離婚してその少年をひとりで育てる母親がいる。人形劇作家の母親の仕事が忙しくなったため、台湾人留学生のシッターを雇うところから物語がはじまる。そのシッター役が、ソン・ファンである。ぼくの後ろに座っていたひとだったのだ(映画の中でも、本名のソンと呼ばれていた)。シッターとして働くソンは、パリで映画を学んでいて、どこに行くにも家庭用のビデオカメラを離さず、赤い風船についての映画を作ろうとしている。はじめは、疎外感を抱いているものの、しだいにパリの風景にとけ込んでいくソンの姿に、同じく映像作家を目指していたぼくは、ぴったりと自らを投影することができた。


だから、ソン・ファンとぼくが同じ映画祭でディレクターとして同席していることが、とても不思議で、また幸福な気分になった。そして、グランプリを取り逃したぼくは、「渡辺さんとソン・ファンが組んだら、きっと素敵な映画をできるだろうなぁ」と閉会式が終わるまで、身勝手な想像を膨らませていた。


愛のゆくえ(仮)

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夕方、パン屋で直径40センチ程のフランスパンを買って、ウチに帰っている途中、思い出し笑いをした。あまりにヘラヘラ笑ってしまったので、髪を栗色に染めた
OLにいぶかし気な目で見られた。思い出したのは、旧友、木村文洋との間に起こったある惨事だ。

当時、京大生だった木村さんは、何やら一分間の短編を作る企画(詳細は覚えていない)を抱えていて、その短編に出演してほしいとぼくに言ってきた。台詞がなかったこともあって、その依頼にぼくは心良く応えた。撮影日、待ち合わせ場所の木村さん宅に行くと、木村さんだけでスタッフは誰もいなかった。まぁ、短編だし、小規模な企画だからあたり前かと思った。カメラマン兼監督の木村さん、出演者のぼくだけの撮影が早速はじまった。

先ずは、ベットにぼくが寝ていて、悪い夢から目覚めるというシーンだった。「何か、アイディアはありますか?」と言われ、ぼくは実体験を話した。がらの悪い連中に羽交い締めにされる夢からとび起きたぼくが、その勢いで部屋の壁を力いっぱい殴ったために指を骨折したという内容。それを聞いた木村さんは、笑みを浮かべて「それ、やりましょう」と言った。幸い木村さんのアパートの壁は、板張りだったので殴ってもそれほど痛くなかったのだが、殴った瞬間、壁に掛かっていた鏡がぼくの頭上に落ちてきた。面白いショットになったのだろう、「大丈夫ですか」と言う木村さんは、またしても笑みを浮かべていた。

その後、味をしめたのか、木村演出は激しさを増した。急にあらわれた知らない女(キャスティングされていたのだろうけれど)と簡単なカラミをやらされたり(その女の彼氏らしい男が柱の影から、ずっとその様子を見ていた)、裸みたいな格好で田んぼの真ん中を歩かされたり、散々だった。

極めつけは、裸みたい格好のまま駅前に連れていかれ、どこで入手したのか、直径40センチほどの鹿の角のはく製を渡され、「女子高生が通りかかったら、それを振り上げて、大声で叫んでください」と言われた。ぼくは一応、その演出意図を聞いたが、木村さんの説明が難し過ぎて分からなかった。取りあえず、鹿の角を持って、女子高生が来るのを待った。女子高生の集団がすぐに、ぼくの視界に入ってきた。いざ、鹿の角を振り上げようとしても、恥ずかしさのあまり、腕が凍りつき動かない。カメラを構えた木村さんの方を見ると、「何で?何で上げないの?」みたいな目でぼくを見ている。ぼくは、「ごめん、次は上手くやるから」という目で木村さんを見返した。撮影も終盤に差しかかり、ふたりの間には、アイコンタクトが成立していた。

オレンジ色に染まった京都市内の駅前は、帰宅時の人ごみでごった返している。再び、女子高生の波がぼくに近づいてきた。ぼくは鹿の角を振り上げることはできたものの、叫ぶまでには至らなかった。木村さんが勢いよくぼくにかけ寄ってきて「時間がないから、次の現場に行きましょう!」と言った。確か、「小谷さんは、俳優じゃないもんね」とも言った…。

ここに書いたことは、今年の東京国際映画祭に
正式出品された木村文洋監督最新作『愛のゆくえ(仮)』とは無関係だ。ただ、フランスパンを持って歩いてる時に、突如思い出した惨事に過ぎない。だけれども、ぼくにとっては輝かしい惨事である。木村さんが木村さんのままで、映画を作っていることが嬉しい。

『愛のゆくえ(仮)』
監督・脚本:木村文洋
プロデューサー・撮影:高橋和博
第25回東京国際映画祭(日本映画・ある視点部門)
http://2012.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=125
12月1日よりポレポレ東中野にて公開!
http://teamjudas.lomo.jp/aikari.html




ねこ撮影論

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『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』には、何匹ものら猫が登場する。ぼくは動物が苦手で、その中でも得に猫はイヤな相手だった。だから、猫を撮影する何てことは考えてもみなかった。


ある時、撮影素材を見ていたプロデューサーの大澤さんが「この映画には、猫がいる」と言い出した。この頃、(佐野さんが亡くなって少し経っていた)映画の構成を立てていた大澤さんには、何か考えがあったのだろうけど、理由を聞いても「とにかく、いっぱい、いるんだよ」というばかり。普段の大澤さんは、物事を論理的に話すスマートなタイプだが、創作的なアイディアが浮かんだ時は、小学生以下になるから面倒だ。

「猫の絵本だからって、猫が出てくるのはありきたり過ぎてイヤですよ…猫なんか、みんな撮ってるから、撮りたくないですよ…」とぶつぶつ言っても、ガキ大将と化した大澤さんは断固として主張を曲げなかった。渋々、家庭用ビデオカメラを持って、いまだ慣れない東京をふらふらと猫を探して歩きはじめた。どうせ撮るなら、飼い猫ではなく、絵本の中に登場する自由気侭なのら猫にしようと思ったからだ。


学生時代から変わらず思うことは、カメラという機械は、レンズを通して見物する世界をすべて幻に変える道具であるということ。だからこそ、現実の中から何かを再発見、または再発明する力を備えている。撮影をはじめて一ヶ月も経たないうちに、ぼくはのら猫に魅了されてしまっていた。

飼い猫は十数年生きると言われるが、のら猫は二、三年ほどしか生きられないそうだ。それだけ、過酷な日々を生きているのら猫の目は鋭く、孤独だった。耳が食いちぎられたり、目がつぶれていたり、やせ細りぼろ雑巾のようにうす汚れたのら猫達はとても美しかった。前作の『
LINE』では、沖縄のコザ吉原で働く娼婦の人たちを撮影したが、密集地に佇むのら猫の姿が、どこかあの生命力に満ちた娼婦たちの姿と重なりもした。


出没率が高いと教えてもらった、JR中央線沿いを中心に撮影をくり返した。「表には何もない」と師、高嶺剛は小さな声で言っていた。吉祥寺から新宿までの入り組んだ裏道をカメラと三脚を担いで歩くと足が棒になる。けれど、不思議と棒になりはじめた頃から、スッと猫が姿を現す。猫を追って、古びたアパートの階段や、放置された空き地の塀によじ登っていると、当然、不審者となり警察に通報される。(反面、「猫を撮ってるんですよ~」というと慈愛に満ちた目で「がんばって下さいね」と返してくれる優しい人もいた)だから、いつも自分の名前と“只今、ドキュメンタリー映画の撮影中です”と大きく書いたカードを首からぶら下げて歩いた。それが、余計と不審者に映ったのかも知れないが。

写真は一瞬を捉える媒体であるが、映像はある時間を捉えなければならない。警戒心の強いのら猫を撮影するには、彼らとの絶妙な間合いを習得しなければ理想とする緊張感を孕んだ映像(餌などで釣ってしまうと、緊張関係が崩れてしまう)は記録できない。結果、日々の鍛錬により、二年間で何百匹もの猫を撮影することに成功した。なので、自分でいうのもおこがましいが、本編では厳選された美しいのら猫達が登場する。

しかし、なぜ、あそこまで猫に執着したのだろうか。それは、今になって振り返ってみれば、映画の為というよりも、猫は何より、佐野洋子という敬愛する作家を失ったぼくを、明るくも暗くもない目で支えてくれる存在であったからだろう。


『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』
2012年12月よりシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開
監督:小谷忠典
音楽:CORNELIUS
出演:佐野洋子/渡辺真起子/フォン・イェン ほか
http://www.100neko.jp/



遺品

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ラテンアメリカを代表する都市、メキシコシティ。薄紫のハカランダの花が咲きにおう閑静な住宅街、コヨアカン地区に画家のフリーダ・カーロの生家「青い家」があります。現在は、フリーダ・カーロ博物館として世界中から大勢の観光客が訪れます。



幸運をまねくといわれる青い壁に囲まれた館内で、写真家の石内都さんの仕事がはじまりました。50年間、奥まった浴室で眠っていたフリーダの遺品の撮影です。



古曲を奏でるように揺れるつややかな植物が生い茂る中、衣類を中心に、装身具、医療器具、日用品、画材など、何百点にもおよぶ遺品の奔流に気後れすることなく、対象物と対話を重ねながらシャッターをきっていく石内さん。



その姿は、ぼくが考えていたよりも、はるかに運動性の高いものでした。昼食以外は、ひと時も休みなく働きつづける石内さんの髪から、終始、汗がしたたり落ちていたほどです。そうした現場でぼくたち映画チームは、3週間、耳目をひらき、石内さんの仕事を子細に見つめました。



古のアステカ帝国を知っている生ぬるい風、その風に吹かれる中央広場のおおきな国旗。バロックもゴシックもルネサンスも混在した建築物が随所に建ち並ぶ、西洋という他者を色濃く抱えた街、メキシコシティ。



混沌のメキシコシティの呼吸にあわせるように「フリーダに呼ばれたのは、理由があるのよ」と笑う石内さんは、刹那と永遠を持ち得たまなざしで、遺品をとおして、複雑に絡まって窮屈になってしまった世界をしなやかにほどいていく…撮影にご協力いただきました皆さまに感謝いたします。



(写真・伊藤華織)





メキシコ

テーマ:




フリーダ・カーロの写真を中心に構成された写真集


東日本大地震から、まもなく一年が過ぎようとしている昨日、
僕は、写真家の石内都さんと画家のフリーダ・カーロについて
語り合っていた。

2月18日から、石内さんはメキシコのコヨアカン地区にある
フリーダ・カーロ博物館(ブルーハウス)に貯蔵されている
フリーダの遺品を撮影する。そのプロジェクトに、僕も同行
することになったからだ。

これまでの石内さんの仕事の中で、遺品という観点から思い
出されるのが『mother’s』『mother’s』はガードルや口紅や
ヘアブラシ等、石内さんの母親が生前に身に着けていた
日常品が撮られたものだ。『mother’s』について石内さんは
「写真を撮ったら捨てることが出来そうな気がして、撮り
はじめた。」と語っている。

取り残されて不調和になった品々に対して、石内さんは写真
いう調和により、しかるべき意味を与え、解き放つ。

この度の仕事で石内さんは、手術で切り刻まれてた肉体、襲い
かかってくる後遺症の苦痛、愛と憎しみで痛んだ精神等、濃密な
心身の痛みを内包したフリーダの遺品とどう向き合うのだろうか。
そして、それらの不調和に対してどのような調和を用いるの
だろうか。

「映画だったら、記録するだけじゃ、ダメよ」と石内さんに
言われたように、僕は石内さんの眼差しがフリーダの痛みを解放
するまでの時間を表現したいと考えている。

横浜市にある石内さんのアトリエのテーブルには、6日にお亡く
なりになった『シカゴ、シカゴ』等で知られる孤高の写真家、
石元泰博氏を偲ぶ百合がそっと置かれていた。死に近づくことは
同時に生に近づくことであることを僕はもう知っている。室内に
広がるモーツアルトのレクイエムが、メキシコへと我々を導く。

大変急な撮影準備にもかかわらず、ご協力いただいた方々に深く
感謝します。



かつて

テーマ:


年末年始と大阪で過ごす。今回の帰省は例年になく
大勢の旧友やその家族に会えた。

子どもや学生の頃に出会い、利害のない時間を過ご
した人たちと一緒にいると、緊張がゆるんで少し
弱くなれたり、ヘラヘラ笑えたりする。

僕が僕であるように、かつては、時間を共に過ごした
友人たちが、今はそれぞれの時間を過ごしている。
会社を辞めて独立した話、別居している話、子どもが
生まれた話、海外で暮らしている話…

“かつて”はほったらかして、立ち止まっている“いま”
も、歩いている“いま”も、手作りのおせち料理が
並んだにぎやかなテーブルで同じように語り合えた。

深夜、機種変更したばかりの電話が鳴る。「おまえ、
歌、下手やなぁ」と高校時代の友人からだ。マフラー
をグルグルまきにして冷えきった夜空の下、自転車を
飛ばして新築の友人宅に向かう。

居間に通されると高校の頃、半端にやってたバンドの
メンバーが、みるにたえない当時のライブ映像を酒の
つまみに眺めていた。次から次へと醜態をさらけ
出した映像は続き、終いにはなぜかバンドのリーダー
の結婚式ビデオに達した。

リーダーは、確か20歳の時に結婚したので、もう
14年前の映像なのだが、その映像は映画学校に
通っていた僕が撮影したものだった。最初は、全く
気づかず(手を抜いていたわけではないけれど)に
見ていたが、その席にいた筈の自分が映っていない
ことで「あ、そうだった」と思い出した。

まだ痩せていた新郎のリーダーは、カラオケで18番を
歌い喜々として仲間とたわむれていた。その後、友人
代表のスピーチが始まった。涙ながらも長文を男らしく
読み上げるその青年は、一昨年亡くなった友人だった。
思いがけない映像は、初夢のようだった。

ほったらかしていた“かつて”が、除夜の鐘よりも生きて
いるものの世界を、静かにそしてやさしくした。