2015/12/28 信濃毎日新聞
 私たちはどこへ(36)=責任(下) 
 東京電力福島第1原発事故では多くの人が古里を失い、福島県では今も10万人以上が県内外で避難生活を送る。その中には、満蒙(まんもう)開拓団として旧満州(中国東北部)に渡り、死線をくぐって引き揚げた人たちもいる。戦争と原発。二つの国策は人々を翻弄(ほんろう)し、怒りと無念さを残した。
 
<「安住の地」2度失う>
 大内孝夫(82)が目にしたのは道路に連なる車の列だった。2011年3月12日、福島県浪江町。東京電力福島第1原発の事故を受けて、避難する人たちを乗せた車が、町内を東西に走る国道114号に押し寄せた。
 70年近く前の忌まわしい記憶が、その光景に重なった。国に捨てられ、混乱の中をさまよい続ける人たち。「あの時と同じだな」。大内は心の中でつぶやいた。

 1942年3月、大内は同県新殿村(現二本松市)から旧満州に渡った。国策による満蒙開拓団の一員として、家族とともに入植。現地では広い土地が与えられ、食べ物も豊富だった。生まれ育った村での貧しい暮らしは一変したが、長くは続かなかった。45年8月9日、ソ連軍の満州侵攻で開拓団は大混乱に陥った。
 男たちは兵士として動員され、残っていたのは老人や女性、子どもがほとんど。ソ連軍が迫る中、開拓団が選んだのは「集団自決」だった。
 「白っぽい粉を渡されたんだ。これを飲んで死ぬと思って空を見上げたら、ずいぶんと星がきれいだったな」。母が子を、祖父母が孫を手に掛ける。惨劇の中、ある長老が大内一家の服毒を制止した。命拾いしたが、その先には「地獄と呼ぶのも生ぬるい」逃避行が待っていた。

 死はいつも隣り合わせだった。極寒と飢えで避難民たちは次々と倒れた。いてついた地に埋葬もできず、遺体は草むらに放置された。46年9月、ようやく帰国の船に乗った時、11人いた家族は大内と父、弟の3人になっていた。「よく気が狂わなかったと思う。いや、狂っていたのかもしれないな」
 弟は帰国直後に病死。大内と父は48年9月、福島に戻り、津島村(現浪江町)南津島に入植した。政府の引き揚げ者支援で、再び開拓民となった。ササぶきの小屋に住み、木を倒して土を耕し、まきや炭を売って生活する苦しい日々が続いた。
 51年、五月(さつき)(84)と結婚し、畑や水田も徐々に広がった。4人の子どもに恵まれ、家も新築した。「ようやくついのすみかを手に入れたはずだったんだ。ここが古里だと思っていた」。入植から63年。25キロほど先にある原発が、大内から再び古里を奪った。
 原発事故から4年半が過ぎた今も、大内は五月とともに二本松市内の仮設住宅で暮らす。自宅は放射線量の高い帰還困難区域内にあり、戻るめどは立たない。「帰れるのは100年後かね」。五月が力なく笑った。
 「満州は決して平和じゃないことも、原発が決して安全じゃないということも、気付いた時はもう遅かった」。笑みを絶やさない大内が、表情を曇らせた。「つくづく古里に縁がない。腹立たしいけれど、もう諦めるしかないわ」

 福島県三春町の仮設住宅。全村避難が続く葛尾村から移り、独り暮らしを続ける岩間政金(まさかね)(90)は「国が手のひらを返せば全部がだめになる。むなしいもんだ」と、ため息をついた。
 家族5人で下伊那郡上久堅村(現飯田市)から満州に入植したのは37年3月。米国からの世界大恐慌の波は日本にも及び、養蚕や製糸産業が打撃を受けた長野県は、全国最多の約3万8千人を満州に送り込んだ。
 国策に乗ってたどり着いた先には、豊かな生活があった。しかし、敗戦によって、現地の中国人の感情がむき出しになった。家は壊され、人々は逃げ惑った。「現地の土地を奪って威張り散らしていれば、恨まれても仕方ない」。全財産を失い、46年9月に帰国した。
 辛酸をなめた敗戦から帰国、そして入植の日々。それに比べたら、仮設住宅での生活は楽にも思える。それでも、より深刻なのは「原発だ」と言い切る。「放射能は目に見えないから戦えない。本当に厄介な代物だぞ」
 戦争も原発も「国が進めて庶民が犠牲になる」と実感する。仮設住宅では、老人の孤独死も珍しくない。それも犠牲者だ、と思う。「原発はいろんなものを壊したが、また動き始めた。これも国策なんだな」。冷たい北風を肌に感じながら、岩間は遠くの山に目をやった。その向こうには、気の遠くなるような廃炉作業が続く福島第1原発がある。
   (敬称略、共同=佐藤大介)(「私たちはどこへ」おわり)
 
<長野県から最多 犠牲多数、移民の悲劇>
 日本が1931年、満州事変を引き起こした翌年、中国東北部に「満州国」が建国された。独立国として「五族協和」と「王道楽土」をスローガンに掲げたが、実際には日本人が実権を持つ「かいらい国家」だった。日本は国策として、満州北部への集団移民「満蒙開拓団」を推奨した。最も多く送り出されたのが長野県で、山形、熊本、福島県と続き、その数は全国で約27万人とされる。
 下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」は、開拓団に特化した全国初の資料館として、2013年4月に開館した。専務理事の寺沢秀文(62)は、設立の目的を「不都合な史実にも目を向け、戦争の過ちを繰り返さないため」と話す。
 日本は開拓団を、満州北方のソ連国境地域を防衛する「人間の盾」としていた。1945年8月、ソ連が対日参戦した時、満州に展開していた関東軍は南に移動し、置き去りにされた開拓団には多くの犠牲者が出た。シベリアに抑留された人も少なくなく、取り残された子どもたちが残留孤児となる悲劇も生まれた。
 だが、開拓団の歴史はそうした被害だけではない。記念館の展示では、加害者としての責任にも言及している。「現地の人々にとって開拓団は自分たちの土地を奪う存在であり、満蒙開拓は侵略の加担という側面もありました」
 記念館には全国から多くの人が訪れ、来館者は8万2千人を超えた。両親が開拓団の一員だった寺沢は「戦前から戦後にかけ、開拓団は国策に運命を左右され続けてきた。その歴史から学ぶことは多い」と話している。