映画 ”白磁の人” に登場する 朝鮮民族美術館をたて、世界で始めて朝鮮の白磁の展覧会を開いた 朝鮮の白磁に魅了された美術家 柳宗悦(やなぎむねよし)。

淺川巧とともに、記憶に残しておきたい人物です。ぜひ読んでください。


柳 宗悦~
「民藝」運動に生涯を捧げ、朝鮮の国・民族・文化を愛し弁護した「民藝運動の父」(その1)

 かつて、柳宗悦(以下「宗悦」といいます。)という民藝運動に生涯を捧げた美学者がいました。韓国併合の時代、宗悦は、朝鮮時代の工藝品との出会いをきっかけに、朝鮮の民衆的工藝品ひいてはそれを生み出す朝鮮民族を愛するようになり、身命を賭して、当時の日本政府の植民地政策の批判や朝鮮の独立運動に対する理解と支持を表明しました。宗悦は、その後朝鮮のみならず日本の「民藝(民衆的工藝)」の美の発見と民藝運動に生涯を捧げました。

◆ 文藝雑誌「白樺」の発刊

 宗悦は1889(明治22)年、東京市麻布区に父・柳楢悦と母勝子の三男として生まれました。宗悦が2歳になる前に父親が亡くなったため、以後は母親の弟である叔父の嘉納治五郎(柔道の講道館創始者)の世話を受けながら、母親の手で育てられました。
 宗悦は、1895(明治28)年に学習院初等科に入学後、同中等学科、同高等学科へ進みます。その間に、武者小路実篤、志賀直哉ら後の「白樺」同人たちとの交友が始まり、高等学科を卒業した1910(明治43)年の4月に、同人たちとともに文藝雑誌『白樺』を創刊しました。同年9月に宗悦は東京帝国大学に入学、以後、『白樺』に各種の論文を寄稿します。

◆ 朝鮮との縁


 ▲柳宗悦・兼子(京都駅にて)
 宗悦は、学生の頃から朝鮮に関心を持つようになりました。それは、宗悦の姉が嫁いだ相手が日露戦争時代の仁川の総領事であり、宗悦の妹が嫁いだ相手も朝鮮総督府総務部に勤務していたことが影響しています。
 宗悦が初めて朝鮮の古陶磁を購入したのは、宗悦がまだ学習院高等科の学生のときのことです。その後、画廊の展覧会に展示されていた朝鮮時代の白磁の美しさに打たれた宗悦は、浅川伯教、巧兄弟との交友の影響も受けて、朝鮮の陶磁に対する関心を強くしていきました。
 宗悦は1914(大正3)年に声楽家の中島兼子と結婚し、同年、我孫子に転居します。その転居したばかりの柳邸を浅川伯教が訪問した時、朝鮮の陶器数点を持参しました。このことが大きなきっかけとなり、宗悦は1916(大正5)年に初めて朝鮮を訪れました。それは、ソウルにいる妹に会うことも目的でしたが、一方で、朝鮮の陶磁器の美しさに惹かれ、現地で買い集める目的もありました。宗悦は、以後の25年間に21回にわたり朝鮮を訪れ、私財により、朝鮮民族によって日々親しまれていた器具や家具(以下「朝鮮時代の民衆的工芸品」といいます。)を買い集めていきます。

◎協力・写真提供 日本民藝館

※白樺 雑誌「白樺」は1910(明治43)年に創刊され、1923(大正12)年の関東大震災時、第160号をもって終刊。志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦ほか学習院同窓・同人が中心となって小説・詩などを創作発表し、明治から大正にかけての近代文学活動の源になりました。
※朝鮮時代 李氏朝鮮時代(李朝)ともいい、朝鮮王朝が朝鮮半島を統治していた、1392年から1910年に日本に併合されるまでの時代をいいます。

◆ 朝鮮民族美術館の設立

 その当時、朝鮮には朝鮮時代の民衆的工芸品に注意を向ける人はほとんどいない状況でした。宗悦は、朝鮮の民族の優れた作品が失われようとしているとの危機感をいだき、その芸術の価値とその未来とを擁護するために、朝鮮人に代わってソウルに美術館を設置する望みをいだくようになりました。

▲朝鮮の陶器
 その実現の第一歩として1921(大正10)年に東京の神田で朝鮮民族美術展覧会を開催しました。これは日本で初めての朝鮮時代の工芸品の展覧会でした。宗悦は、翌年、ソウルで世界最初の「李朝陶磁器展覧会」を開催した後、1924(大正13)年、浅川兄弟とともに朝鮮初の私立美術館である「朝鮮民族美術館」を設立しました。美術館の名前について、宗悦たちは朝鮮総督府から「民族」の名を消すよう再三再四命じられましたが、最後まで妥協しませんでした。何故なら、宗悦たちが朝鮮民族美術館を設立する目的は、単に朝鮮時代の民衆的工芸品を蒐集し展示することではなく、宗悦がその設立趣意書の中で述べているように、「私は之が消えようとする民族芸術の、消えない持続と新たな復活との動因になることを希う」ことだったからです。宗悦は、同美術館に、自身が買い求めた収集品を収めました。
 宗悦は、朝鮮民族美術館設立後も、東京やソウルで何度も展覧会を開催し、また『白樺』その他の雑誌等に朝鮮固有の民族美術について寄稿するなど、朝鮮時代の民衆的工芸品の紹介に取り組みます。

◎協力・写真提供 日本民藝館

◆ 朝鮮の人たちへの情愛と弁護

 1919(大正8)年3月1日、日本統治時代の朝鮮で独立運動(「三・一独立運動」と言われます。)が行われました。当時、朝鮮人は軍隊に鎮圧され、多数の人々が亡くなりました。宗悦はこの事態に衝撃を受け、同年5月に日本の植民地政策を批判し朝鮮人を弁護する「朝鮮人を想う」を新聞に掲載しました。宗悦は、この後も1920(大正九)年6月の「朝鮮の友に贈る書」(雑誌掲載)などで、日本による朝鮮の武力支配を批判し、朝鮮の独立について理解を示します。こうした宗悦の批判は、警察から危険思想の持ち主として監視される状況をもたらしましたが、宗悦は行動を止めませんでした。

  宗悦は、1922(大正11)年9月に「失われんとする一朝鮮建築の為に」(雑誌掲載)を執筆して、朝鮮総督府が朝鮮王朝の王宮の正殿前に庁舎を建設するため王宮の正門である「光化門」を取り壊そうとしていることを批判しました。この記事の影響もあり、光化門は破壊を免れ、1927年に移築されました。
 こうした文筆活動のほかに、宗悦は声楽家である妻の兼子とともに朝鮮各地で朝鮮民族を励ます講演会と朝鮮の人たちを慰める音楽会を開催しました。1923(大正12)年には、関東大震災で被災した朝鮮人を救済するための講演会を朝鮮で開催しています。
 このように、宗悦は朝鮮時代の民衆的工芸品の美を愛し、その美しさを広く紹介し、破壊から守るだけではなく、それを生んだ国や民族を愛し、朝鮮人の友として行動し続けました。

◆ 日本民藝館の開設と民藝運動


  その後、宗悦は木喰仏その他の日本国内の手仕事についても調査、研究を行いました。1925(大正14)年、宗悦は仲間とともに民衆的工藝あるいは民間の工芸のことを指す「民藝」という言葉を生み出し、民藝品の調査・蒐集を進めました。そして、1935(昭和11)年に東京駒場に日本民藝館を開設し、そこを拠点として民藝品の調査その他の活動を展開し、1961(昭和36)年、72歳の生涯を終えました。
 1984(昭和59)年、韓国政府は朝鮮とその民族芸術に対する宗悦の功績に対して、外国人としては異例の「宝冠文化勲章」を授与しました。

◎協力・写真提供 日本民藝館

※三・一独立運動 1919(大正8)年3月1日にソウルで独立宣言が発表され、「独立万歳」を叫ぶデモ行進が行われました。運動はソウルから各地に及び、3ヶ月にわたって繰り広げられ、日本は武力で鎮圧しました。


東京人権啓発企業連絡会から資料の提供