インドの独立を30年早めた日本 | (旧)日本が好きなだけなんだよ

インドの独立を30年早めた日本

インドの独立を30年早めた日本


■インパール作戦 アジアの曙光 -6- (平成9年5月25日号)

「日本人はインパール(ビルマ最西端からインドでの戦争)作戦は悲劇の戦争と見て
いるが、インド人は華々しい独立戦争と見ている」
(中略)
インド人は「インパール作戦は、インドの独立戦争である。我々が非力な為に、
日本軍に多大な犠牲を強いてまことに申し訳ない。永久に日本人の好意は忘れない」
と力説する。熱烈に日本軍を誉める親日家は老人だけではない。少年少女が、今戦争を見てきたように、日本軍将兵の奮闘ぶりを語るので、老人と少年少女の日常会話が偲ばれてならなかった。


■「列伝 太平洋戦争」 半藤一利 宮崎繁三郎中将--インパール作戦の鬼将軍


氏は土地の青年によってかつての激戦地に案内される。ナガ族の青年は途々賞讃をこめて語りかけるのである。日本兵が勇敢であったこと。彼らは英印軍の圧倒的に優勢な武器をものともせず、戦車に銃剣一つで立ち向かっていった。死を少しも恐れていなかった。そして、なかんずく軍律が厳しかったという事実を。戦後しばしば聞かされていた日本陸軍の、中国大陸やフィリピン、
マレーでの非人間的な戦争犯罪の話を思い出し、思わず「軍律が?」と中根氏は尋ねた。青年は答える。「日本の兵隊は私たちの婦女子にけっして悪いことをしませんでした。・・・英印軍のなかには私たちの婦女子にずいぶんひどいことをしたのも少なくありませんでした。私たちは、敗けたとはいえ、日本軍のあの勇敢さと軍律の厳しさを、今でも尊敬しているのです」と。


全国戦友会連合会 ナガの青年達の感激 (孫との会話)
http://www.senyu-ren.jp/MAGO/22.HTM


私・・・日本軍が入ったのは印度の中のナガランドとい う所で、そこには印度人ではなくナガ族という人種が 住んでいた。ナガ族は山岳民族で、山の谷間のあちこ ちに部落を作っていたんだが、日本軍が入ると大抵ど こかへ姿を隠してしまって、滅多に見ることはなかっ たね。しかし戦後、栃木県にアジア学院という農業指導者 を養成する学校が出来てね。そこへナガ族の人も毎年 何人かずつ留学に来ていることが分ったんだよ。それでその留学生達を毎年のように呼ぶことにしたんだ。 ビルマ英霊顕彰会というおじいさん達の会が中心になっ てね。何故って、進攻作戦中、心ならずもナガの人達 の糧食を無断で頂戴したろう。そのお詫びと御礼とい う積りなんだよ。ナガの青年達はすっかり感激してね。彼らのおじい さんから聞いた話として、日本の兵隊は非常に勇敢で、 規律も正しく、イギリスの軍隊を相手にしてよく戦っ た。残念ながら日本は負けたけれど、お陰で印度は独 立出来たと言っているそうだ。何故あの時、日本側に ついてイギリスと戦わなかったのかと、若者が老人達に抗議したという記事がナガの新聞に載っているのを、 一度見せて貰ったことがあるが、ナガの人達は日本の お陰でイギリスから独立出来たと思っているんだよ。印度は昔から、イギリスの植民地から脱して独立し たいと、何度も何度も試み
たが成功しなかった。有色 人種は白人には勝てないと、半ば諦めていたんだよ。日本が日露戦争で白人の国ロシアに勝った時、世界中 で一番喜んだのは印度だろうね。だから今度の戦争に も、印度は非常に期待していたわけさ。


■「捏造された日本史」黄文雄


英印軍の捕虜からインド国民軍の将校になった二万人近い軍人たちが裁判にかけられたとき、首席弁護士を務めたインド法曹界の長老、パラディ・デサイ博士は裁判で召喚された光機関長 磯田中将、ビルマ方面軍参謀長 片倉中将のいる前で、堂々とこう語った。「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年もはやまった。インドだけではない、ビルマもインドネシアもベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」と。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog059.html より引用


再来日したパール博士は各地で講演会を行い、日本の法曹界やマスコミが、なぜ東京裁判の不当性、不法性に対して、沈黙しているのか、と問われた。いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルグの軍事裁判が、果たし正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。...げんに英国法曹界の長老ハンキー卿は「パール博士の無罪論こそ正論である」として「戦犯裁判の錯誤」と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本において、この重大な国際問題にソッポを向いているのはどうしたことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を確立しようとしないのか。さらに広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しません」という文字を見て、パール博士は言った。東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ。博士は、日本の法律家やジャーナリストが、東京裁判で提起された問題に対する本質的な論争、すなわち、「大東亜戦争は本当に侵略戦争なのか」、「日本は平和に対する罪、人道に対する罪を犯したのか」という点に関して、あまりにも無関心、不勉強であることにいたく失望した。


■卒塔婆を建てた村長 アジアの曙光 -6- (平成9年5月25日号)

インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨をを集める為、村民を総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に染まりました」イギリス軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよく分かった。村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆(高さ約4㍍)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法要していると言う。我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたとら、村長は「我等の尊敬してやまない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。シンハ元村長は、「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実直である。 この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫になっていた」と教えてくれた。家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。


日本では売国左翼や朝鮮人達の国内工作により、朝鮮人達に都合の良い日本人の自虐史観がはびこり、国家の存亡時に命がけで戦った先祖がないがしろにされているが、異邦であるインドで日本軍の戦いぶりが伝説のように語り継がれ、日本兵が手厚く供養されているというのは皮肉な話である。日本では、兵隊だった自分の祖父や父を単なる人殺しと考える人間も少なくないらしいが、国家に貢献した人間を軽んじるような国は、いずれ滅亡の道を辿ることは間違いない。そういう意味では、他国の者であっても自国に貢献した人間を讃えるインドの方が、国家的に明るい希望に満ちているといってもいいだろう。自国どころか他国にまで貢献した先人をないがしろにする日本人に、果たして明るい未来は訪れるのであろうか?