ここ暫く、世間では、勝っただ負けただのと騒がしかったので、

 

〝勝〟について、考察したいと思ふ。

 

「勝」という字は、モノを力で持ち上げる様子を表しているそうだ。

 

そのことから、「こらえる」という意味もあるらしい。

 

より重いモノを持ち上げられる方がまさる、ということから、

 

相手より「勝る」、即ち、相手に「勝つ」と、なったのであろう。

 

てっきり、相手を倒す、とか、やっつけることかと思っていたのだが、

 

この感じだと、優れた(勝れた)ところを見せる、示す、と、いったコトだろう。

 

そう思えば、重量挙げ、陸上競技、水泳などは、何キロ挙げた、

 

何メートルを何秒で走った、泳いだ、という記録を示し競うのだから

 

「勝つ」という語源に沿う競技なのであろう。

 

野球やサッカー、レスリング、柔道などの、争って相手を倒す競技は、

 

「勝つ」というよりは、「倒す」「やっつける」という表現が似つかわしいのであろう。

 

 

「いつ夕」の解説でも述べさせて戴いたが、

 

俺は実生活に役立たぬコトは趣味だと思っている。

 

何キロ挙げようと、何秒で走り、泳ごうと、何メートル跳ぼうと、

 

それを、実生活に役立てぬのなら、「だからどうした」で終わりである。

 

記録を求める競技は、まだよい。

 

自己顕示欲が、自己実現が、自己完結で済むのだから。

 

競う相手がいたとしても、記録を出せなければ、そこまでである。

 

記録を出せないのは、自己責任であり、自己の限界であろう。

 

しかし、相手を倒す競技 、(と、ゆーよりは、「争技」と云うべきか(^_^;))

 

これは、そうはいかない。

 

記録を競い、「勝る」者を決めるのとは違い、

 

争って、倒した者、倒された者、

 

破った者、敗れた(二枚貝が割れた様子)者を決めるのだから。

 

このテの争いには、ルール違反や反則、ズル、卑怯、下品な挑発や罵声…、

 

みっともない、はしたない、意地汚い、破廉恥な行為がついてまわるようだ。

 

相手を打ち破るのが争いの目的なのだから、それも仕方がないことなのだろう。

 

因みに、「負」は、人が貝(財、モノ) を背負っている様子なのだそう。

 

「勝」もこらえる、耐える意味なら、

 

「負」も負う、こらえる、耐える意味となり、

 

「勝負」とは、反語とゆーよりは同義語っぽい。

 

こらえて勝つのか、こらえて負うのか…。

 

 

武蔵は、敵を倒すことが武士の務めだと述べている。

 

敵 (己の命、大切な者、コトを奪おうとする相手) は、

 

何としてでも倒さねばならぬ。殺さねばならぬ。

 

生きるために、大切な者、コトを守るために。

 

先のルール違反、反則、ズル、卑怯、破廉恥などと云ってはいられない。

 

手段を選んではいられない。

 

生きねば、守らねばならないのだから。

 

本来、争い、とは、そういう生存を懸けた、切羽詰まったことではないのだろうか。

 

相手を攻めねば、相手から奪わねば、相手を殺さねば、

 

己が、己の大切な者が死んでしまう。だから、相手を攻めざるを得ない。

 

攻められた側も、生きるため、守るために敵と戦わざるを得ない。

 

元来は、食物を巡る、食物に付随した土地を巡る争いであったのだろう。

 

食うか食われるか、食えるか食えないかの争いだったのだろう。

 

弱肉強食、生存競争などと、人は、もっともらしいことを云うが、

 

人類以外の生物は食物連鎖、自然の摂理、調和に、本能に従っているだけだ。

 

生存の為に、必要なモノを必要なだけ摂っているに過ぎない。

 

本能が壊れている人類は、協力して食物を得るだとか、分かち合うだとか、

 

知恵と工夫で争わずに済む方法があるのに、それをしないことが多いようだ。

 

〝勝〟「こらえる」「耐える」ことをしない。

 

「あるトコロから奪えばいい」と、安直に他国へ攻めかかり、

 

虐殺したり、原爆落としたりするのは人類だけである。

 

争いの始まりは、「食うこと」だったはずだが、「食える世の中」になっても、

 

何だかわけのわからないこと (幻想) で争っている。

 

「だからどうした」といったコトで争っている。

 

突き詰めれば、自己顕示欲、と、ゆーことなのだろう。

 

先人たちの、ご先祖様たちの「食える世の中」にする努力が実り、

 

現在、どうにか「食える世の中」になって、

 

「食うため」の争いではなく、自己顕示欲の為の

 

「争技」というスポーツ、ゲームを楽しめられるようになったコトは、

 

御目出度い世の中になったのであろう。

 

俺から見れば、

 

いい大人が、「勝っただ負けただ」と自己顕示欲をぶつけあって、

 

「だからどうした」

 

あさましいというか、みっともないというか、そんなに〝勝〟(こらえること) が

 

好きなら、自己顕示欲をこらえてくれ、自己顕示欲に勝ってくれ、

 

と、思うと同時に、忸怩たる思いに駆られる。

 

俺にも「勝っただ負けただ」の時期があった。

 

自己顕示欲の塊だった時期があった。

 

その時期を思い起こすと恥ずかしい。

 

今も少しはあるので偉そうには云えないが、

 

気づいたことは述べさせて戴く。

 

 

先の競技、争技の違いで謂えば、

 

自己顕示欲を、自己実現を「記録」、何かを成したというカタチで示し、

 

(できれば、皆の役に立つこと、社会に貢献できることが望ましい)

 

己の能力を高め、

 

勝(すぐ)れた、勝(まさ)れる者を目指すことは、まだ好いと思う。

 

しかし、他者を倒し、破ることで、

 

自己顕示、自己実現することは如何なものか。

 

生存するために敵を倒すこと(実生活)の為に、

 

鍛練し、実践訓練(試合)することには意味があるであろう。

 

だが、生存の懸からぬ争いで、自己顕示欲、自己優越感の為に、

 

徒に他者を敗者へと貶めて何の喜びがあるのか、

 

(そんなに優越感に浸りたいのかひ?)

 

敗者をつくりだすことに意味があるのか。

 

(屈辱、劣等感を与えて嬉しいのかひ?)

 

自己満足の為に、無益な争いを仕掛けないで戴きたい。

 

無益な争いで、相手が困窮し、生存を脅かされることもある。

 

せっかく「食える世の中」になったのに、これでは本末転倒であろう。

 

遊び、ゲーム、スポーツなら、お互いの諒解のもとにしていることだから、

 

当人同士好きにすればいい。「だからどうした」で済む。

 

サドマゾプレイのようなコトだ。愛好家同士お好きにどうぞ。(^_^)

 

しかし、世の中には、「勝っただ負けただ」の価値観ではなく、

 

穏やかに、和やかに生きたい者もいる。

 

当人の自己実現は結構だが、

 

自己顕示欲に他者を巻き込まないで戴きたい。迷惑である。(*^_^*)

 

〝勝〟には、こらえる、と、いう意味もあるのだから。

 

そうそう、克己の「克」も

 

「重い兜を頭に載せて、脚が曲がっている様子」からの

 

こらえる、耐える、の意味だそうだ。

 

克己、己(おのれ)に克つ、とは、

 

自己顕示欲に克つ (こらえ、耐える) ことも含まれていることだろう。

 

和光同塵、能ある鷹は爪隠す、謙譲、実るほど頭が下がる稲穂かな、

 

金持ち喧嘩せず、驕れる者は久しからず…。

 

昔から、自己顕示欲を戒める言葉は存在している。

 

個人主義も利己主義もゆき過ぎるとハタ迷惑であろう。

 

自己顕示欲、自己実現、優越感、自己満足…、大いに結構なのだが、

 

どうせなら、そのエネルギーをハタ迷惑に遣わずに、

 

ハタ楽 (働く) こと、皆の役立つことに遣って戴きたい。

 

勝者とは、他者を倒す、破る者でも、敗者をつくりだす者でも、

 

他者に重荷(負担)を背負わせる、他者を負かす者ではなく、

 

自らが重荷(負担)を持ち上げる、こらえ、耐える者ではないのか、

 

更に、己の勝れた、勝ることを活かして、他者を支え助ける者ではないのか、

 

そして、新たな勝者をつくりだす(育てる)のも勝者の務めであろう、

 

と、俺は思ふ。それを、望み、願ふ。 (*^_^*)

 

「自分の弱さに勝つ」という言葉があるが、

 

自分の弱さを倒す、やっつける、否定排除するのではなく、

 

(弱さも自分の一面である。自分を倒しては、否定排除してはならないであろう。

 

無理に弱さを否定排除し過ぎると分裂症になるのではないか)

 

あるものはある。

 

自分の弱さを認め、支え助けることが勝つことではないだろうか。

 

自分の弱さを支え助けながら、勝れた自分、理想の自分へ導いてゆく。

 

それも修行の一つなのだろう。

 


 

日日好日