雑感 | やりなおし司法試験
ボ2ネタを見ていたら、コメント欄に以下のような投稿を発見した。三振制度がむごいという投稿に対するレスポンスだが、

三振制度がない方が凄惨な結果を生みます

50歳過ぎまで旧司法試験を受け続けた人を知っていますが、新司法試験制度発足を機に足を洗い、現在はアル中です

他にも、還暦まで受け続けた後で司法書士試験(今も受験生)に転向した人、奥さんの収入に頼って20年近く賤業受験生を続けた後で断念した人(現在は法律事務所で月収20万円くらいで事務員をしています)など、悲惨な事例は数知れずです

大学院卒という経歴を与えた上で受験回数3回までという現行制度は、一見公平でいてギャンブルに近かった旧試験に比べれば、遥かに温情溢れるものです


とおっしゃるのである。余計な御世話だ。特に、今のご時世、月収20万の仕事があるなんて、素晴らしいじゃないか。20年も「賤業」(余計なお世話!)受験生をしていたにもかかわらず。何を恥じる必要があるのだ。

世の中には、たとえば小説家を夢見て一生その日暮らしをする人や、起業に失敗して借金まみれになる人、役者やミュージシャンを目指して「貴重な二十代の時間を浪費」(余計なお世話!)する人もいる。結果はともかく、各々の夢を叶えるべく努力する人たちがいて、その人たちが競い合うことがそれぞれのカテゴリーを発展させ、社会に活力を与えてきたのだ。社会経済的観点からも、彼らの挑戦は決して無駄ではないはずだ。

夢を追い続けた。しかし叶えることはできなかった。それは残念なことだけれど、それはそれで彼ら(彼女ら)の人生は充実したものだったのではないか。挑戦することすらできずにあきらめさせられるよりは。彼らの人生は他人が同情するようなものでは決してないし、結果についてはまさに自己責任以外の何物でもない。しかし、司法制度改革は、自由競争に参加することが可能なフィールドが開かれていたにもかかわらず、それを失敗とみなし、その責任を自由競争の存在に転嫁したのである。

もしかしたら、結果についての自己責任を受け入れられなかった人たちのルサンチマンが生み出した制度が新司法試験なのかもしれない。法律学者や東大卒の新聞記者で司法試験に失敗した経験のある人は、認知的不協和を回避するために、「優秀な自分が受からなかったのは制度に問題があったからだ(自分より馬鹿なあいつが受かったんだから間違いない!)」と思い込んでしまうこともあるだろう。気持ちは分かる。僕も、学生時代に偉そうなことを言っていた部活の後輩が今や検察官だ。あいつが受かるなら、俺だって。いや、制度が悪い(笑)。でも、それって恥ずかしくないですか。僕が受からないのは、結局のところ、①頭が悪い、②努力が足りない、③要領が悪いという3つの理由があるからに過ぎない。

ところで、法律家であれば、制度の是非を考えるにあたって、まずは憲法理論を参照すべきである。すなわち、三振制度がボ2ネタのコメントのようなパターナリズムに基づくものであるとするのであれば、そもそもそのような介入が許されるのかについては厳しく吟味されるべきであろう。司法試験の受験を決意するような人間の自己決定に対する介入は、まさに余計なお世話以外の何物でもない。このような介入がエスカレートすれば、いずれ待っているのは竹宮恵子の『地球へ』のような、コンピューターが個人の適性を審査し、職業選択が極度に制限された管理社会だ。弁護士は「エリート」にしか許されないことになるだろう。