8時半頃、病院に戻り、陣痛室に入って妻の様子を見る。妻は意外に元気そうだ。僕の顔を見ると、昨日の夜と同じく「ごめんね」と言う。昨日の夜は数分間隔で来ていた陣痛の波は、あまり来ていないようだ。



出勤してきたのか、本日の担当の医師が僕たちの陣痛室に入ってきた。意外にも妻と同年代の30半ばぐらいの若い女性で、およそ医者らしくなく、居酒屋チェーンの店員さんのようなチャキチャキ、サバサバとした雰囲気の人だった。


「陣痛が弱く、出産に時間がかかっています。破水してからかなり時間がたっていますので、赤ちゃんが感染する危険もあり、お母さんも赤ちゃんも疲れてきているので、陣痛促進剤を点滴で入れます。陣痛促進剤を入れると、陣痛の痛みが強まったり、子宮が破裂する危険があります。でも、様子を見ながら少しずつ入れていきますので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。それに用意をしているうちに産まれるかもしれません」と言う。



「承諾書」を渡され、サインするように促された。この人の言うことは信用できる。徹夜状態であまり頭は働かなかったけど、そう思い、サインした。


「手術・検査・治療法等医療行為説明書」と題されたペーパーには、こう書いてあった。「病名:微弱陣痛。医療行為名:陣痛促進。目的・必要性・合併症等:陣痛が弱くなかなか分娩が進まない状況です。現在、破水・陣痛発来後、時間がたち、子宮内感染・母体疲労も考慮されるため分娩促進を行います。現在、胎児は元気ですが、分娩時(陣痛があるとき)は、胎児にとって危険な時期です。胎児の徐脈が続く時などは、緊急の処置が必要になることがあります。陣痛促進剤の点滴を行います。合併症には過強陣痛・胎児仮死・子宮破裂・アレルギーなどが挙げられます。胎児心拍モニターを装着の上、量を調節します。随時説明、対処します。以下余白」。



「午前中には産まれるようにしたいですね」と、女医さんは笑顔を見せて言った。そう、あと数時間で産まれてほしい。破水してからすでに丸一日以上、陣痛が始まってから半日以上が過ぎている。妻はもともとそれほど体力がある方ではないし、30半ばの高齢の初産だ。昨日の午後からずっと付き添っているご両親も限界だろう。



午前11時過ぎ、陣痛室にいた妻の母が待合室に戻ってきた。「分娩室に入りました」と言う。ついに。ようやく。いよいよだ。がんばれ。妻。そして赤ちゃん。無事にこの世に生まれて来てくれ。あと、もう少しだ。


午後12時。分娩室に入ってからそろそろ1時間がたつが、何の知らせもない。大丈夫なのか。まさに難産だ。午後1210分頃、「○○さん(僕の名前)」と呼ぶ声がしたので、妻の両親とともに急いで隣りの陣痛室に行くと、そこに赤ちゃんを抱いた看護師さん(この人も20代半ばぐらいの若くて白くて細い美人さんだった)が立っていた。



「女の子ですよ。おめでとうございます」。お、女の子なのか。正直、少しがっかりしたというか、意外な感じがした。僕は、男の子が欲しいという密かな願望があり、赤ちゃんがかなり活発に動いていて、妊娠37週頃からは妻のお腹を激しく蹴るのでお腹が痛いという話を聞いていたため、たぶん男の子だろうと勝手に思い込んでいたのである。



11時○分に生まれました。3千○gです」。妻の両親とともに、長椅子に座り、まず僕が看護師さんから赤ちゃんを受け取り、抱いた。産まれたばかりの赤ちゃんというと、激しく泣いているものという印象があったのだけれど、赤ちゃんは全然泣いていない。それどころかほとんど動かない。生きているのか。ちゃんと息をしているのか。元気に産まれてきたのか。大丈夫なのか。



「頭に少し傷ができていますけれど、これは赤ちゃんとお母さんが頑張った証拠です。すぐ治りますから大丈夫ですよ。お母さんも元気です」と言う看護師さんの声を聞きながら、自分の腕の中にいる小さな生命体をじっと見つめた。この時の様子は、妻の母がビデオに撮ってくれたので、今でも見ることができる。僕は、赤ちゃんを見つめながら「ありがとうございました」と言って、ただただ何度も頭を下げていた。



赤ちゃんというと、しわくちゃな顔というイメージがあったものの、娘の顔はあまりしわくちゃではなく、全体的につるんとしていた。しかし、全然泣かない。ほとんど動かない。目はしっかり閉じられている。口から少し透明な液体が出てきた。「まだ羊水が残っているんです。詰まるといけないので」と、看護師さんが口元をガーゼで拭ってくれた。小さい手に目がいく。でも、すでにきちんと小さな爪が生えている。不思議だった。



次に妻の母が赤ちゃんを抱いた。その時、赤ちゃんが少し顔をしかめた。「泣いたらダメだよ」と、妻の母が言った。赤ちゃんは泣かず、声も出さなかった。1~2分だったと思う。あっという間に赤ちゃんは分娩室に戻っていった。実感はない。全くない。女の子だから、余計にそう思うのか。僕には女きょうだいはいないし、女の子は僕とは別の世界にいる別の人たちなのだ。



妻の母が「この子は出産前から切迫早産で心配をかけて、出産もこんなに時間がかかったので、顔を見た途端、涙が出てきた。今まで何度も孫の出産に立ち会ってきたけど、こんなに心配したのは初めてだ。この子が大きくなったら、みんなにどれほど心配をかけたのかを言って聞かせないといけない」と言った。ご両親は涙ぐんでいるようだった。破水から1日半、陣痛が始まってから18時間半、最後にはリスクを承知で陣痛促進剤を投入して、ようやく産まれてきた赤ちゃんだった。



僕が赤ちゃんを抱っこしているちょうどその時、実家の母からメールが来ていた。「赤ちゃんは生まれましたか?」。後から聞くところによると、母はこの日の早朝、女の子が生まれてくる夢を見たと言う。



それから約1時間半後の午後2時半過ぎ、妻が産後の処置を終え(切った部分を縫い合わせたりするらしい)、ベッドに横たわった状態で、廊下に出てきた。意外に元気そうだ。僕もご両親も、「よくがんばった」「良かった良かった」と口々に声をかけた。



午後3時過ぎ、ご両親とともにタクシーで病院を出た。ご両親は完徹状態で、丸1日病院にいたことになる。たいへんなご苦労だ。タクシーの中から、満開の桜の花びらが青空に舞っているのが見えた。何かに祝福されているような春らしい晴天の日。僕のプレパパ時代は終わった。



妊娠390日。去年の夏にあった妻の最終生理初日から数えて273日後。結婚して210カ月後。妻とお見合いで出会って34カ月後。母と大喧嘩した揚句、母に折れてお見合いすることを決意し、婚活を始めてから61カ月後のことだった。