平日の午後、オフィスで仕事をしていると、突然、デスクの下のカバンの中に入れている携帯が振動し始め、3回で止まり、メールが来たことが分かった。嫌な予感がした。今日は妻が病院に定期検診に行っている。すぐに携帯を確認すると、やはり妻からのメールで「病院に定期検診に来たら、お腹が張っている、子宮口が1センチほど開いている、子宮の壁が薄くなっている、子どもの頭が下がっているということで、入院して安静にしないといけないと言われ、そのまま入院しました。携帯はつながるので、また連絡ください」と書いてあった。慌てて電話すると、「特にお腹が痛いとかいうことはないのだけれど、1週間から10日間ほど入院して、ずっと横になっていないといけない」ということで、仕事が終わってから、病院に駆け付けた。



病室のベットに横になっていた妻は元気そうだったものの、「入院は初めて」ということと、まさかこんな形で急に入院することになるとは思ってもみなかったようで、ショックを受け、珍しく少ししょんぼりしているようだった。診断書のようなペーパーを見せてもらうと、そこには「切迫早産 34週」と書かれてあった。治療としては、1週間から10日間の安静で、投薬と場合によっては点滴をして早産を防ぐ。基本的にベットで横になっていないといけない。トイレ以外は病室から出てはいけない。お風呂にも入ってはいけない。電子機器の持ち込み禁止なので、パソコンはできない、iPodも聴けない。テレビはOK。



医者からは「最低でも36週までは赤ちゃんはお腹の中にいてもらわないと困る」と言われたらしい。そういえば、妻と一緒に行った「プレパパ・プレママ教室」で、助産師さんから「妊娠満40週が予定日になっているが、必ず満40週に産まないといけないということではなく、その前の3週と後2週の範囲内であれば良い」という話を聞いていた。37週まではあと3週ある。まだ産まれたら困るという時期なのに、少し産まれそうになっているということなのだ。



どうしてこんなことになってしまったのか。妻の親類にも僕の親類にも、このような形で出産前に入院した人はない。妻は「良く分からないけど、体質なのかもしれない」とこの時言っていた。僕には思い当たる節が二つあった。一つは、この日の二日前に買い物に出かけたのが悪かったのではないかということだ。実は、妻はこの1週間前の定期検診の時に、「少しお腹が張っているので、外出を控えて、家でゴロゴロしているように」と言われていた。それまでは、体重の増加を防ぐ意味もあり、適度な運動を勧められていたので、毎日歩いて買い物に行っていたのだけれど、この一週間はあまり買い物に行かず、ほとんど家で過ごしていた。但し、妻は椅子に座るのが好きな人なので、寝ころばずにずっと座っていたのも良くなかったのかもしれない。



しかし、土曜日には恒例のクルマでのスーパー巡り(買い物)をした後、妻が「産まれてくる赤ちゃんを撮りたい」と前から欲しがっていたビデオカメラを買いに都心の家電量販店にクルマで行き、その後「二人でゆっくり食事するのもこれが最後だろうから」と妻が言うので、妻の大好物の一つである牛たんを食べに行ったのだ。このように、出歩いたのがまずかったのかもしれない。ビデオカメラを買いに行くことは前から決めていたので、もう少し早く行っておけば良かった。



もう一つは、妻の年齢のことである。妻は30代前半の終り、もう少しで医学的に「高齢出産」と呼ばれる35歳になる。しかし、高齢出産のリスクは、35歳から急に高まるものではなく、30歳頃から段階的に高まるものだと言われている。僕も40歳過ぎなので、つまりは高齢夫婦の初産なのである。高齢出産には「妊娠のしにくさ」の他に、「流産・早産リスク」「分娩時の大量出血や産道損傷、帝王切開率上昇のリスク」「赤ちゃんに染色体異常などが起こるリスク」の3つのリスクがあることは、このブログでも以前書いた。だから、妻が妊娠してから、妻のことと妻のお腹の中の赤ちゃんのことをずっと心配していたし、妻が定期検診に行く日は、何か連絡が入らないか、常に携帯を注意していた。



とにかく、多少のショックはあるものの、妻は元気だった。赤ちゃんも元気だと言う。夜8時になると病棟に音楽が流れ、「面会者はお帰りください」とアナウンスされる。消灯時間は夜930分とのこと。帰り際に、妻が「鍋に味噌汁の具と水とだしを入れた状態にしているので、良ければ味噌を入れて作ってください。炊飯器もスイッチを入れるだけの状態になっています。作るのが面倒なら捨ててもらってもいいです」と言う。洗濯物も干したままだったけれど、夕方に入院に必要なものを取りに行くついでに、妻の母が取りこんでおいたはずだとのこと。



930分過ぎ、家に帰る。チャイムは鳴らさない。中に誰もいないから。自分でカギを開け、ドアを開ける。「お帰りなさい」と言ってくれる人はいない。自分でポストから夕刊を取り出す。もちろん、家の中は真っ暗。エアコンはついていない。部屋は冷え切っている。明かりを付け、エアコンのスイッチを入れる。



炊飯器のスイッチを入れ、妻が途中まで用意していた味噌汁を作り、帰宅途中に駅前のスーパーで買ったおかずとともに食べる。何だかいつものように録画しているテレビを見る気がしない。妻の定位置であるダイニングテーブルの椅子の上には、妻がいつも着ている部屋着が、その隣りの椅子にはエプロンが掛けられたままになっている。何だか悲しい。



さっさとシャワーを浴び、布団に入る。横には誰もいない。毎日、当たり前のようにそばにいた人がいない。ただ、それだけのことなのに、妙に悲しく、不安になる。ああ、これが夫婦なんだ。



夫婦というのは、毎日一緒にいるということ、それ自体が大切なことなのだ。一緒にいると言ったって、特に何かするわけではない。特に何もしない。特に大した話をするわけでもない。家に帰ると妻がいて、ご飯を作ってくれて、妻としゃべりながらテレビを見ながらそれを食べて、録画したテレビを見て、妻も食器を洗ったり、新聞を読んだりしながらそのテレビを見るともなしに見て、僕はシャワーを浴びて、寝る。ただそれだけのことなのに、いつも一緒にいる人がいないと、完全に調子が狂ってしまうのである。



結婚するまでは、ずっと一人暮らしをしていた。一人には慣れているはずだった。それなのに、結婚210カ月で、こんなふうになってしまった。夫婦とは不思議なものだ。別にそんなに好きでもない。でも、いないと悲しい。夫婦は、愛情ではなく、一緒に暮らすことによって結ばれているのである。妻がいなくなってしまって、そう思う。だから、別居婚や単身赴任の夫婦は、色々と難しいのではないか。僕は、子どもが無事に産まれてくること、そして、妻の帰還ただそれだけを今、待ちわびている。