例月のものが来る予定日の8日後だった。夕食のテーブルにつくと、妻から「まだはっきりと分からないんだけれど、妊娠したようだ」と告げられた。うれしかった。ほっとした。「肩の荷が下りた」「これで親も喜ぶだろう」というのが正直な気持ちだった。とにかく良かった、非常にうれしい、めでたい、久し振りに明るい話題であるというようなことを妻に言った。妻はもっと僕が驚くと思っていたらしく、思ったより冷静だと残念がったので、実はなかなか子どもに恵まれないとずっと悩んでいたこと、この夏にできなければ基礎体温表を付けるように頼もうと思っていたこと、生理が来た様子がないので1週間前から「もしや」と思っていたことなどを話した。



世の中には子どもがほしいと思っている人がたくさんいる(全国には「子宝の湯」と名付けられた温泉や「子宝を授かる」といわれている寺院などが多数存在する)。知り合いにもいて、そのご夫婦が不妊治療のためにどんなに苦しんだかという話をよく聞かされた。ご夫婦は長い年月の間に四方八方手を尽くして、それでもどうしても恵まれず、医者にもさじを投げられ、最後にはご本人たちもあきらめられて、それではと気晴らしに温泉旅行に出かけたところ、できたのだという。実際、そのような話はよく聞く。「妊娠」というのは「結婚」以上にプライベートな極秘事項なので、テレビや雑誌などにもあまり詳しくは取り上げられないけれど、不妊で苦しんでいるご夫婦は想像以上に数多く存在する。それに僕だって、基礎体温表を付けてもらった上で年内に恵まれなければ、病院に行こうと密かに決意していたのだ。



「子どもに恵まれなくても、夫婦二人で仲良く暮らすのも良いものだ」という話も、よく聞く。それは確かにそうだろうと思う。それでも僕は子どもが欲しかった。どうしても欲しかった。なぜこんなに欲しいのだろうか。それは以下の2つの考えが自分の頭の中にあるからだと思われる。



①「人生の意味は子どもを作ることにあるのではないか」という考え方。つまり、自分の子どもを作ることができれば、最低限その人の人生は良かったのではということである。これは「人間とは悠久の時を旅する遺伝子の乗り物にしか過ぎない。そして、その遺伝子の目的はただ一つ、次の世代に自らのコピーを残すことである」という「利己的遺伝子仮説」(この説には賛否両論ある)に近いものがあるが、どうも最近この考え方は真実ではないかという気がしている。なぜなら僕自身、子どもができたことで(もちろんまだ無事に生まれていないが)、「やるべきことはやった」「これでもういつ死んでもいい」という気が何となくしているからである。



②「親に孫の顔を見せたい」という思い。僕の親には孫は一人もいない。一方、妻の親には何人もいる。妻の実家に行くと、幼い子どもたちが走り回り、騒ぎ回り、大人たちに質問してきたりするので(ドキっとするようなとてもおもしろいことを質問してくる)、非常ににぎやかで楽しい。動き回る幼子たちの姿を見ているだけで心が和むし、子どもたちの相手をしているうちにいつのまにか時間が過ぎていく。孫たちを中心に妻の実家は回っている。一方、僕の実家はというと、盆・正月に一家が集まると言っても、両親と僕、妻、弟の大人5人だけだ。40歳過ぎの僕、30代後半の弟に、何か楽しい話題や明るいニュースがあるわけでもなく、一家で集まったところで今さら特に何も話すことがない。はっきり言って、妻の実家に比べると、暗い。みんなでテレビを見て、スポーツ選手のことを話題にしないと間が持たないほどである。これは結婚して妻の実家に行くようになって初めて分かったことだ。



母親は僕に気を使って(母だけではなく、この2年数ヵ月の間、友人も含めて他の誰からも「赤ちゃんはまだ?」とは1回も聞かれなかった。独身者には「結婚」について、新婚には「子ども」について絶対に聞いてはいけないという暗黙の了解が世の中には完全に浸透しているのを感じた)、半年に1回程度しか子どもについては尋ねなかった。それでも、母も父も孫を熱望しているのは分かっていたし、何とか応えたかった。これで弟がさっさと結婚して子どもがいれば良かったのだが、彼は全く結婚する気がなく、実家から遠く離れて自分のことしか考えていないのである。「僕が何とかしないといけない」というプレッシャーを一身に背負っていた。



ある日、書店で元プロ野球選手の書いた本をパラパラめくっていると、あるエピソードが飛び込んできた。その選手はチームの上層部から非常に酷い扱いを受けた悔しさを忘れず、より一層精進するためのしるしとして入れ墨を入れようと考え、母親に「入れてもいいか?」と電話した。なぜなら「自分の体は母親からもらったものだから、母親に許可を取らずに勝手に自分の体を傷つけることはできない」と思ったからだという。「なるほど。確かにそうだ」と、母親を思うその選手の気持ちに目からウロコが落ちる思いがした。自分の体は、つまり命は、母親からもらったものである。その命を自分勝手にどうこうすることはできない。命をつないでほしいという母親の願いを、親から受け取った命のバトンを、何としても次の時代につなぐことが必要だった。だから、妻の妊娠を知ったとき、これで何とかつながったと、肩の荷が下りたような気がしたのだ。



妻が妊娠した後、やたら芸能人の「おめでた」ニュースに目がいく。妊娠の喜びを「奇蹟」「神秘」と語る彼女たちの気持ちが今は少しだけ分かる。確かに自分はやれるだけのことはやった。しかし、いくら努力しても叶わないことが世の中にはたくさんある。これは自分たちだけの力ではない。親や周りの人たちはもちろん、世の中の多くの人たち、もっと言えばすでにこの世にいない過去の人たち、人間ではない何か自然の力、目に見えない時間と生命と運命の大きな流れのようなものが働いているとしか考えられない。新しい命に恵まれる。僕にとって、これ以上素晴らしい出来事が人生にあるとは、今はとても思えないぐらいなのである。