体制が整備され、応援会場、日常の通学路、夜の盛り場等ですっかりトラブルも減り、親衛隊はその役割を十二分に果たしておりました。
その中、遅ればせながら甲南大學應援團の結成式が盛大に執り行われました。会場は有馬温泉の某老舗旅館 であります。旅館の正門には親衛隊の生みの親と言っても過言ではない本多仁介 翁の特大の花輪が掲げられ、その横には腹心の平田勝市親分以下錚々たる本多翁配下の精鋭の花輪が並びます。そして門を挟んだ反対側には対になる様に特大の田岡一雄 翁からの花輪が飾られ、同様に腹心の安原政雄 親分以下、後年、勇名を馳せる綺羅星の如き侠名が記された花輪がズラリと並びます。広大な旅館の敷地を一周してしまう程の花輪で埋め尽くされ、甲南大學應援團は正式に結成を宣言したのであります。
式では本多翁より「神戸で本格的な大学應援團が結成された事は誠に喜ばしい事である。聞くところによれば大學應援團業界では後発組に属する様だが、だからと言って他地域の者に神戸の者が後れを取って良い理由にはならない。日々、自己研鑽に励み、神戸を代表する気概を持って男の道に邁進して欲しい」という趣旨のご祝辞を賜りました。
対外的にも西宮市に本拠を置く關西學院大學應援團 との交流を深め、本多團長は關西學院大學應援團の大野(五島)團長と五分兄弟の契りを結ぶに至ります。大学の数が多い大阪と対抗する為に兵庫県に本拠を置く両團がしっかりと手を携えた訳であります。
礼儀、規律、団結を重んじ、強きを挫き弱きを扶ける應援團道の原点を本多團長は重視し、その信念に基づき組織作りに邁進されました。そして結成3年にして、大学内で最大の構成員を誇る団体に成長させたその手腕はやはり卓絶していたと言えましょう。
昭和32年、本多團長は卒業されますが、昭和36年に甲南大學應援團OB会が結成されますと、初代会長に就任され、昭和43年には一線を引かれますが、その後も名誉会長として常に甲南大學應援團一門のトップであり続けられました。そして最後の四十八代目團長の引退を見届けるかの様に平成15年、ご逝去されたのであります。
八代目甲南大學應援團OB会
團史編纂委員会