トカゲが、二年ぶりに動き出した!!

もっとか?


プロットをまともに書いたの初めてだったかもしれない。

無事、幕を下ろせます様に。

今からそれを願うなんてそう言う世の中なんだなあって自覚するよ。



見せてみたらどう言う反応が来るか、こわくもあるんだけど。

それって自信もあるてことかなあ?


こわいって多分大事。


すごく楽しみ。

接客をよく褒められた。

人が好きでお客さんが好きだったから、褒めてもらえれば嬉しい。

成績含めて、人に褒められて育ってないから。

褒められるに値するのが不思議ではあった。


でも、後々プライドが出てくる。

そりゃ、あったほうがいい。

無いより。こだわりをもてるし、もっと良くなれる。

それがまた評価されれば自信になる。


でも、それが傲りになってる。

自信をもってできます!と言うのは大切だけど。

そのくらいなら、とか思った時点でそれは傲りだ。


人の振り見て我が振り直せ。

子供の頃親がよく言っていた。



すごく自信家の人がいる。

その人は評価をされないと、それに不満を言う。


評価されなかった原因を知ろうとはしていない。

評価された人はこうだったから、と。

自分で言うのに、その言葉の中に原因が含まれていることには気が付かず自分の浅はかさをひけらかしていることに気がつかない。

わたしは、その言葉選びがとても嫌だった。

わたしはその人が好きだったから、なにも自分の言葉でもって自分の愚かさをひけらかさなくてもいいじゃあないかと。

思っていた。


でも、実際私も同じことをしていた気がしてきた。

諭してくれる大人がたくさんいたけれど、

わたしは話していく中でそれを教えてもらっていたと思う。話しながら整理して受け止める。受け入れるのは多分、得意なほうなのだろう。


自分の非は受け止められる。

プライドはあるけれど、思いが及ばなかったことを悔い改めることで間に合うことと、間に合わないことがある。


なんでも謝って済めばたぶん、誰も争ったりしないだろうと思う。


長く生きればその分経験は多くなる。

だからといってなんでも知ってるわけでは無いし、もちろん間違う。


謙虚であらねばと、すごく思った。

いい面接だったのだろうな。

自分と向き合わなきゃだから、辛い時もあるけど。

こういうのを引き出してくれる人との出会いってすごいことだと思う。

ましてや、赤の他人だったからね。


まだまだ学べる!

死ぬまで頑張れ私。


力む方ではなく、学べってことだな。


すずめの戸締まり、見てきた。

たしかに、被災者の方が見るには辛いと思う。

フラッシュバックというのはどうしてもあると思う。


おかあさんどこー?

て、泣きながら歩くすずめの幼少期の描写。

これだけでもかなりきつい。

そして私が被災したのは東京で、店で働いている時だった。

東京はそれでも、私の周りには深刻なほどの被害は出なかった。

当時わたしはすでに大人だった。


一緒に見た子は小学生だったらしい。

彼女の中には災害として記憶にはあっても、それは私が阪神淡路大震災をあまり覚えていないのと似ていて。

こんな綺麗なところだったんですね。

って言う芹沢に重なった。



これが現実の世代のギャップによるものなのは、戦争を知らない私たちと石鹸が使えないと話していた被爆者の人たちとどうにもならない「経験」という壁があるのだ。


いくら学校で学んでも、親から聞いてもニュースやドラマで見ても。

本当のそれとは、絵に描いたケーキの味を想像するなくらい違う。

生クリームを食べたことのない人にはどうしたって想像はできない。

形や絵から得られる情報は経験ではない。



それが、はじめてちゃんとわかった。

映画を観た帰り、約束の焼肉屋で震度3の地震があった。

一緒に食べた友人はこのくらい大したことないと笑っていた。


地震があると私は一度身を固くする。

行動を止めて、周囲の音を聞く。


また揺れるようならば扉への通路を確認する。


友人は笑いながら今の縦型ですかねー?

と言う。

縦型の揺れだったならそんなものではない。

横揺れで、とても長かったから私は警戒したけれど。

警戒したのは私だけで、店員さんも地震だって声を出す私を「なんか何回も言ってますよあの人」みたいなことを話し笑っていた。


繰り返すのは人間だなと思う。

経験したことのないことを学習するのは難しい。


痛みを知らない人には、なってほしくない。

私は子供を産むかもないけれど、自分よりも後に生きている若い人たちにふと、そう思った。

とてもやり切れなかった。

同じ年だとしても、経験した人たちと知らない人たちとは確実に感じ方も考え方も違う。



今やらなければ。

たしかにそれをすごく感じた。


傷つくと、受け入れるには段階があるらしい。



私たちも継がなきゃいけないんだって初めて思った。

私たちが知り得ること、体験したこと、気持ち、出来事。

それを経て何が起こったか。


未来の子供たちは知らないこと。

そうかぁ…


わたしは人を繋ぐことが役目だと思ってた。

変わってきたんだね。なるほど。

ゆにぃはこう言うことを考えているのかな。


聞いてみよ。ふふふー




漂流団地も同じような、忘れられた古いものたちとかをテーマに描かれていた。

立ち止まって振り返ってしまった子が、これからを、進むための物語。

でも曖昧さがかなり目立っていたから、

新海誠は、古い民俗学と結ぶことでその曖昧さを回避してる。


日本人であるから、観やすく思う不思議。

宗教観が違うと感じ方がかなり異なるから成立するのか聞いてみたいけど。



神とはそういうもの。

これは私にはとてもしっくりする。


石も、

後ろ戸も


意味があり、ちゃんと歴史に存在するいろんなものをただ不思議と片付けないのが

やはりありがたい。



不思議なものって、説明できない色々があるんだけど。

ただ不思議って片付けると、受け止める側には難しい。それが身近だった人と、そうでない人がいる。


できるなら、誰にでもと行きたいじゃない?

今回パンフレットを買ったんだけど。

役者の話が読みたい時と、物語の話が読みたい時がある。


今回両方だけど、後者で。


あぁ、演出を受けてみたいって思ってしまった。

なにもしていないわたしには、ただの夢想。


これから何をするかは私が決めること。


オーディション、きちんと受けてみようかな。

知り合いのところでもなんでもいい。


知りたい。今の私に見えるもの、今の私にできること。


もちろん、主宰もほんとうならやりたい。

人を集めて稽古するって大変。

でも、稽古はやはりやらなきゃ。

家で一人で考えてもっていくは、もちろんやって欲しいけど。

芝居は合わせて作っていくのは稽古場だと思う。

一人で家で作るものだけでいいのなら、それは個であって。

一つにはならない。


個々人数分だけの、個。


これが最近感じていた違和感だったかもしれない。



創りたい、繋ぎたい、伝えていきたい。

わたしが居たこともそうだけど、のちに生まれてくる人やいま苦しんでいる人に。

わたしという、不思議種が経験したこと、感じたこと、歩いて行ったこと。

それだけでも、もしかすると一人でも、歩けるようになるかもしれないなぁって思った。こんなのエゴだけどさ。


わたしはずっと、誰かに理解された方生きてる。

いまだに、その人には会えてない。

理解きてくれる人はあるけれど、共に歩けるわけではない。

それがいわゆるパートナーなのかもしれないけど。私は多分体のパーツを探してるようなそんな感じだなぁ。


死ぬまでに見つけられなかったら、きっと死んだ後も探すと思う。

生まれ変われるならば、たぶんその魂のどこかに残るんじゃあないかな。覚えては居ないだろうけれど。地獄に落ちても、天国に行っても、おそらく。

探し続けるんじゃあないかな。


やっぱり一人で完成ではないらしい。

芝居作りたい。


すごく、そう思った。