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現役の大統領が、
原爆投下後
初めて私の生まれ故郷
広島に足を踏み入れた。

物心ついた頃から
「ピカドン」の話はいつも
近くにあった。

父から聞いた
B29の話
母から聞いた
全身ケロイドの人たちの話


爆心から1.7キロで被爆した
当時7歳の母が、
黒い雨の降る中逃げまどい

60年もすぎてから甲状腺のガンになり原爆症として認定されたこと。

子供の頃は
悲惨なことが
あったのだとは
わかっても

戦後生まれの私は、
たとえ被爆二世ではあっても、

ピカドンを体験したわけでもないから、
ピンとこない
遠い昔の話のような気がした。

20歳となり
NHKFMのローカルタイム
のパーソナリティDJをしていた
冷戦当時、
若い広島の中学生や高校生は、
原爆や核についてどう思っているのか、
ラジオ放送の中で
問いかけてみたことが、
「核もオンエア」
という見出しで読売新聞に掲載された。

紹介されたのはハタチの頃
だから、
もうあれから33年の時が過ぎた。

ハタチから33年を
引き算すると
1950年

ピカドンから5年後なのだ。

そう考えると
被爆した人たちにとって
ピカドンは、
「ついこのあいだのこと」
なのではないかと

今だから思う。


広島に生まれたものの使命として
広島を伝えなくてはいけない。

そんな風に気負っていた。

いろんな思想や
いろんな批評が
あるけれど


子を持つ親となり
命の重さを感じ
今ここで笑っている
いのちが何より
大切であると思うことは、
誰もが同じであってほしい。

生き残りではないのだ
共存共生なのだ


オバマ大統領が降り立った
広島ヘリポート。
広島西飛行場は、これまた
被爆者である父の職場だった。
幼い頃はよく父に連れられ
広島空港に行ったものだ。

思い出の場所だ。


オバマ大統領が、
核のフットボールを持って
広島の地に、
広島空港や
原爆死没者慰霊碑前に立ったことの
是非が問われている。

核のフットボールとは革製のカバンで、
中には軍事最高機密が詰まっているそうだ。
 衛星通信電話のほか、核兵器発射を承認する秘密コード、核兵器に関するテキストのような文書などが納められているという。大統領がどこへ行こうと、軍人がこのカバンを持って寄り添って同行する。

企業の経営者もそうだが

トップに立つものは
その行動を常に問われる。

相反するものを
いつも携え
最悪の状況を常に
想定しながら
たくさんの矛盾を抱えながら、
関係各所に配慮しながら
折り合いをつけながら
最善の行動を選んでいくのだ。


被爆者の手を取り
被爆者と抱き合い

その傍らに
核のフットボールを携える

矛盾が何より苦しいのは
トップに立つものかもしれない。

企業の経営者となった今
そう思う。

大切なことは
直接対話
直接触れ合い
わかりあうこと。

オバマ大統領と被爆者とが、
抱き合ったとき

私はやはり胸が熱くなり
涙がこぼれた。

これは
理屈では言い表せない感情なのだと思う。