断崖絶壁の幕末砲台と防空監視哨通信小屋 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[土佐藩・大浦砲台と丸山防空監視哨]

土佐は海岸線が長いため、幕末は多くの砲台が設置されていたが、四国西南地方の大月町は、西側が宿毛湾、南側が土佐湾(太平洋)に面しているた朴崎休憩所から見た砲台跡の海崖(左側) め、土佐の中でも砲台の数は多かった。



大月町教育委員会では昭和後期、それらの砲台跡を調査し、報告書に纏めているが、それでは大浦、古満目、柏島、白崎、橘浦の各砲台跡が報告されている。



内、古満目は遠見山、柏島は大黒山にあり(山名について教委は未調査)、それらの山は拙著の「土佐の静寂峰」(土佐のマイナー山part1)に収録しているが、前者は自然崩壊、後者は戦時中、防空監台場のピークを望む 視哨が設置され、更に戦後、燈台が建設されたため、消滅した。

白崎砲台については平成に入り、土砂に埋没気味の模様で、数年前探訪時は台場石垣も確認できなかった。橘浦砲台は既に昭和期に消滅した模様で、教委も未確認である。



残る大浦砲台跡は先日探訪したのだが、意外にも台場の石垣が残っていた。しかもその場所は、大堂海岸のような切り立った朴崎という岬の海崖。崖の高さは61.5m。大砲運搬は相当難儀だったことだろう。

尚、砲台跡の位置について、昭和期の教委の報告書では図示が間違っていたが、平成期の報告書では訂正されている。



大月町は戦時中も海防や防空について重要視され、数ヶ所に防空監視哨が設置 されていた。大浦砲台跡の北東の丸山(台場の石垣:巾着山・92.7m)にも設置されていたが、ここには珍しい鉄筋の通信小屋らしきものが残っている。一般的な通信室は監視哨哨舎内に設けられていることが多いが、哨舎は普通、木造のため、耐弾性を考慮して独立したコンクリート小屋にしたのだろう。



探訪はまず、登路を探すことを考え、大浦砲台跡に向かうことにした。大浦地区へは、宿毛市から国道321号を南下する ルートと、土佐清水市から同国道を西進するルートがあるが、当方は前台場の上面 者を選んだ。中村宿毛道路を利用すると早く到着できるだろうと思っていたのだが、信号機や交通量の少なさからすると、後者の方が早く行けたかも知れない。



大浦分岐バス停から西に折れ、尾浦漁港からは大浦川を遡り、上流でUターンして丸山北西の鞍部を越える。四国のみち(車道)の朴崎休憩所から71m独立標高点峰と砲台跡のある朴崎が見えているが、誰 もが「本当にあんな切り立った崖に砲台を築くことができるのか!?」と驚くことだろう。台場下からの眺望



やがて道路は川に並行して進むようになるが、その本流に架かるコンクリート橋の手前に登山口(踏み跡は不明瞭)があるので、車は路肩に駐車する。該当地形図は下川口。

尚、公共交通機関利用時は、大浦バス停(終点)から大浦川まで行くと、そこから遍路道を登って丸山北西の鞍部のやや手前に出る。そこから登山口までは前述の車道を1キロ少々。時間があれば月山神社まで足 を延ばすと良い。



川を渡渉すると、対岸の川沿いを川下丸山山容 方向へと進む。踏み跡は不明瞭だが、斜面を見れば歩ける所は大体決まってくる。

谷状地形に下ると、南東下に炭焼き窯跡があるが、ここからその涸れ沢のような谷を上がる。一応、これはかつての登山道。

朴ノ川山の尾根に出ると、不明瞭な踏み跡は尾根の東直下を南下している。



最高所の朴ノ川山山頂(森林基本図独立標高点89.6m)には、大浦砲台と連携していた大浦火立場があったはずだが、藪で確認できない。

そこから下った先の鞍部から、砲台跡へ の登山道は南西に分かれ、支尾根に移るのだが、踏み跡が不明瞭なため、往路に於いては気づきにくい。但通信小屋 し、右手を見ていると、支尾根に気付くはず。



この支尾根は断崖の超痩せ尾根故、地形図にも尾根の形が明確には描き切れていない。この尾根の突端、朴崎上に砲台の石垣がある。石垣は高さ約50cm、南北約2m、東西約4mの規模で、上の土塁部分は消失している。

この下方は眺望が優れており、丸山南の岩門のようになった磯や叶崎から足摺岬まで望見できる。



来た道を引き返すと丸山北西の鞍部まで移動し、基礎 尾根を登る。尾根は山頂まで段々畑跡石垣が続く。

三角点手前に通信小屋がある。哨員は三班からなり、三日に一度の輪番勤務。一時間交代で二名ずつが立哨監視、通信、待機を繰り返していた。現在では周囲に樹木が茂り、洋上や上空の監視はできない。

小屋横のコンクリート基礎は哨舎跡か、それとも聴音室跡か。基礎の東側には塹壕を伴う小さな横穴壕跡があり、やや先の北側斜面にも塹壕や便槽らしきものも残っている。



当時、大月町内の監視哨では高峰三枝子のヒット曲「湖畔の宿」の替え歌が流行っていた。

♪山の淋しい監視哨で 監視するのもお国のためと 固い心はしていても 赤い夕陽の沈む頃 町の灯りの恋しさよ♪

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