リカードの比較優位説(一国における各商品の生産費の比を他国のそれと比較し、優位の商品を輸出して劣位の商品を輸入すれば双方が利益を得て国際分業が行われるという説「デジタル大辞泉より」)なるクズ理論を信じる者がいまだに絶えない。

 

“比較優位説は数多ある経済学の理論で「前提無しに成立する」唯一の理論”とまで言い放つバカもいるが、前提の有無以前にエセ理論を信奉するシロウトの願望の中しか存在しない“妄想理論”に過ぎない

 

比較優位説を青筋立てて擁護する連中は、例のイギリスの羊毛とポルトガルのワインの話や、弁護士と秘書(最近は、タイガー・ウッズと芝刈り少年の話に夢中)の職業分担の話を盾にして、絶対不可侵の地動説並みに完璧な理論だと主張する。

 

交易は比較優位説のおかげ、人類が自給自足せずに済むのも比較優位説のおかげ、職業選択も比較優位説のおかげ…と際限なくリカードの手柄にしようとするから質が悪い。

この辺りは、ちょっと良くなった経済指標を見つけては、何でも自分たちの手柄だと喧伝するリフレ派の連中とそっくりだ。

 

労働量1単位で、A国はパン4個か毛布2枚、B国はパン3個か毛布1枚が生産可能とした場合、どちらもA国のほうが効率的だが、B国では毛布1枚を諦めればパン3個が生産できるため、パンの機会費用が少ない。A国が毛布、B国がパンに特化し、貿易を行うほうがよい。』というデジタル大辞泉の説明事例を見ても、ピンとくるより、あまりに現実離れしていることへの違和感が募る一方だ。

 

そもそも、一国における比較優位産業や比較劣位産業なんて、誰も正確に把握することは不可能だし、比較劣位と決めつけられた産業を排除することもできない。

 

B国が毛布を諦めパンの生産に特化したとして、ついさっきまで毛布を作っていた職人が、いきなりパンを3個も生産できるはずがないし、パン職人への転職を無条件にのむとは限らない。

 

毛布職人が、エセ理論をバラ撒く高校教師(フィクションです)を見て、俺も高校教師(社会科)になれるはずだと駄々を捏ねたらどうするのか?

 

また、A国が毛布、B国がパンに特化できたとして、相互の交易が成立する保障などどこにもない。

 

A国では米食が大ブームとなり、B国は熱帯気候ゆえに毛布が不要となれば、互いに、パンも毛布も不要となるが、それでも比較優位説を盾にして、両国に対して、需要ゼロのゴミ造りに特化しろとでも言うつもりか?

 

現実には、A🔗B両国間のニーズが互いの比較優位産業と完全に合致する確率はゼロに近く、これは、自給自足経済下の物々交換といったファンタジーと同様、ほぼあり得ない空想の世界でしかない。

 

彼らは、自給自足が消滅したり、各人が特定の職業に特化したりするのは、すべて比較優位説のおかげだと得意げに騙るが、そんなものは、交易の発展に都合よく乗っかっただけの詭弁であり人々が一つの職業に特化するのは、単純に、ほとんどの職場で副業が禁止されているからに過ぎない。

 

また、自給自足が消えたのは、比較劣位産業を潰して優位性の高い産業への集約を果たしたからではなく、単に交通網や産業の発展とともに生産力が上がり、それを流通させる術が発達したからに過ぎない。

 

人類は紀元前の太古から世界中で交易を行い自給自足生活と手を切ってきたが、別に比較優位産業の生産物だけを交易してきた訳じゃない。

交易物の中には、付加価値の高いものもあれば、単に造り過ぎただけの余剰品もあり、生産性の高い物品に特化して交易し合うという比較優位説では説明できないものが多すぎる。

 

地方には比較優位産業と呼ぶべき産業など皆無に等しいが、とくに問題なく物品流通がなされているし、交易国同士が優位産業と劣位産業を補完し合うなんてのも、日独間で、互いの優位産業であるはずの自動車の交易がなされているのはおかしなことになる。

 

現実には、リカードが理想とする国際分業なんて絵に描いた餅に過ぎず、複数国の比較優位産業が同一産品であるケースが一般的で、分業どころか熾烈な貿易戦争が起きているではないか。

 

さらに、我が国には3万種近い職業が存在すると言われているが、比較優位説が本物ならば、比較劣位産業が淘汰されて優位産業に特化せねばならぬはずでいまだに、多くのゾンビ企業や劣位産業生き残っていること自体が奇異なことではないか?

 

そもそも、比較優位説の論拠を、各国における様々な品目の「生産性=1単位を生産するのに必要な労働力」に求めている時点で、理論として流の誹りを免れない。

 

リカードが生きていた生産力に乏しい時代ならともかく、恒常的な需要不足に悩まされる現代においては、“造れば売れる”ことを前提とした産業や交易は、理論的にも実証的にも成り立たない

 

ポルトガルはワインづくりに特化すると生産量がUPすると思い込むのは勝手だが、勝手気ままに造りまくった大量のワインを、いったい何処の誰が買うというのか?

 

ポルトガルが毛織物づくりに特化したイギリスとの交易を望んだところで、イギリス人がフランスワインを選択したら、ポルトガルはワインを畑にでも撒くしかない。

 

野放図な自由貿易論を唱えたがる連中は、リカードとかセイ、マンデル・フレミングモデルの如き実戦力を失った古臭い理論に頼るのではなく、そろそろ自分の頭を使って論拠を組み立てる努力をすべきだろう。

 

生産力が脆弱であった時代の理論をいくら振り回しても、需要不足の時代に通用する理論は見つからない。