こんにちは、神戸元町発☆おしゃれ初心者の毎日新しい私に出会う着回しコーデ術Sane ユリカです。
今日は、私がなぜこの仕事をしているかの“企業理念”というか、“起業理念”を皆様にお伝えしようと思います。
●超未熟児のわたし
1980年9月に兵庫県西宮市で産まれました、えっそっから始まるの?
はい、長く壮大なお話の始まり始まり~。
約1300gで産まれた私は、超未熟児でして、産まれる前から「命の保証はない」、と母は聞かされていたそうです。
幸い無事に産まれたのですが、その日から未熟児の緊急治療室に入れられ、「毎日息をしているか見に行くのが怖かった」と後に母から聞かされました。
「お医者様から“もう大丈夫ですよ”と聞かされたとき本当に安堵した」と聞いて、改めて自分が生きているのがやっとの状態だったことを実感したのを覚えています。
ですが、緊急治療室を出てもその日から元気に!というわけではなく、呼吸器系が未発達なまま産まれてきたので、他に病気がないか検査の毎日でした。
そして大きなことが分かったのです。
それは、私は人よりもIQ(知能指数)が低いということでした。
知能指数とは人の知能の基準を数値化したものです。大体どれぐらいだったかは分かりませんが、毎週家から1時間かけて大阪にある知能を回復させる教室に、トレーニングを受けに行ったのを覚えています。
●コンプレックスだらけの幼少期
それで少しは回復したのかもしれませんが、小学校に上がり英算国理社など色々な学習をするにつれて、人よりも暗記や習得レベルが遅いことを実感するようになりました。
算数では、黒板に書いてある回答が分かった人から座るというような授業があり、いつも最後まで立っていた気がします。特に体育は顕著でいわゆるできない子軍団でしたね。
よくいじめられなかったなと今では思いますが、持ち前の明るさとおもしろさ(自分で言うてどないすんねん)で周りに好かれていたからやっていけたのだと思います。
それでも、 『人より出来ないことに対するコンプレックス』 は、日に日に増してました。
小学生は、思ったことをすぐ口にするので“なんで出来ないの??”と言われて、“どうしてみんなと同じように出来ないんだろう”と悔しくて泣くことも多かったです。
ですが、小学校も高学年になると、図工と音楽のような特に感性を必要とされる教科だけは、夏休みの宿題で賞に選ばれるようになるなど人並み以上の評価を得られるようになってきました。
この時の誉められた経験から、ずっと抱えていたコンプレックスが少しずつ気にならなくなり、私でも人から羨ましがられるような能力があるのかーと、ちょっとずつ自分への自信につながっていったのだと思います。
そんな幼少期でしたが、親は、“あんたは生きてるだけでいい”っていうもんやから、姉から“えっゆりかにだけハードル低すぎやろ!”と、言われるほど親にはかなり甘やかされておりました、はい。
そのおかげ?で成績もごくへいぼーんで、なんとか中堅の高校に行きました。
●ゆりか、目覚める
高校生の時は、とにかく洋服が好きでフリーマーケットや古着屋に行っては個性的な服を着てました。ピンクのパンタロンとか編み編みワンピとか(笑)
というのもその頃は、雇用機会均等法が日本で施行され、女性の社会進出が注目されている時代だったのですね。
音楽ではマドンナやノッコがファッションから女性の自由を表現していて、 『個性を出して、自分を表現するっていいなー』 と彼女たちへの憧れから、個性的な服を着ることにどんどんのめりこんでいったのだと思います。
それまでの私はみんなに追いつくことで必死だったけれど、ファッションや音楽など自分のしたいことをするようになると、周りから“楽しそう”、“明るいわ~”などと言われるようになりました。性格もどんどんひょうきんになりました。
そう言われるたび、 『そうかー、人と同じことをするより違うことをする方が個性として周りから受け入れられる』と感じていました。
次第に “どんなに人がうらやましくても他人にはなれない、自分は自分でいいのかもしれない”と思うようになりました。このとき、『人よりできないことに対するコンプレックス』よりも、『自分の個性を出すことで、比べられることのない自分だけの魅力を身につけることができる』
ということを、確信していったのです。
そして、日々が流れていき、なすがままに受けた大学が全滅・・・・!!!できないことが分かってないのに、やらない典型的なタイプだったので案の定・・・
それから一年、死にもの狂いで勉強して、大学で第一志望の大学に受かったとき、“出来ないと思い込んでいたけれど、その分人より努力すれば、自分の理想に近づけるんだな”と実感したのでした。
大学に入ってからも、ファッション・色彩検定・音楽・中国語など、自分の興味のある分野に邁進するようになりました。ですが、同じ中国に留学した友達に習得の遅さをバカにされたりして、激怒することもよくあり。。。
克服したように感じていたけれど、結局、まだ深いところで『自分は人より物事を習得することに時間がかかる』ということに、ものすごくコンプレックスに感じていたのだと思います。
その頃から、 『自分は頑張ってる人に寄り添うことや、私のようにできない人に絶対できる!ということを伝えていけるような職業につきたい』という想いも芽生えたのでした。
●母から受け継いだこと
もう一つ現在の自分に大きな影響を与えたのは母です。
幼少期から母の影響で、インドのカースト制度の実態・アフリカで割礼儀式・部落問題など、様々な社会問題の本を読んでおり、戦争映画やドキュメンタリーなどもたくさん観てきました。
母は自分の子供に、世界のどこかでこんな理不尽な現実と戦っている人がいることを伝えたかったのだと思います。そんな風に生きている人がいる中で、今当たり前のように衣食住に恵まれている環境に感謝し、世界が平和になるためにあなたが出来ることを考えなさいと言われているように感じていました。
また、母は典型的なフェミニストです。結婚はしなくても手に職をつけて一人でも生きていけるようにしなさいとよく言ってました。母は男性に依存し生きなければならないのではなく、自立した強い人になってほしいと思っていたのだと思います。
それは、母自身は高学歴だったのに、時代の背景もあってやりたかったことをあきらめざるを得なかったから、娘には自由にやりたいことをやって自立してほしいという願いがあったのだと思います。
実際、戦後平等になったといえど、大学時代に行った旅行先では、アジア人ということで差別を感じたり・・・、
日本でも女の子なんだから早く結婚して子供を産みなさいなどと言われたり、実力があっても女性というだけで出世しにくかったり、母が生きてきた時代となにも変わらず見えにくい形で同じような差別が日本でもあるなって思います。
なんだ、母が生きてきた時代と変わらず、自由でも平等でもないんだなーと世の不条理を感じていました。
また、大学では社会学部に属し、歴史・福祉・情報・ジェンダー(社会的、文化的に形成された男女の違い)など社会学を深く学ぶことで、1人1人が今出来ることを考え、それを若い私たちが担っていく立場なんだと感じました。
社会のためにというとボランティアなどの奉仕活動が念頭に浮かびますが、会社に属することだけでなく、サービスの先に人を幸せに出来るなら、それも社会のためになるものだと思います。
少しでも社会のためになることをしよう!という使命感のようなもの感じていました。
そして就職では、ファッションが好きだったのもあり、“人種・国籍・年齢・性別において差別のない服を作る”という企業理念に魅かれ、UNIQLOに入社を決めたのです。
小さい頃から感じていたコンプレックスと、それと相反する、母の影響や大学で学んで培ってきた “自由“”平等”“平和”という概念が、自然と自分の自己形成に大きく影響してきていたのだと思います。
●ファッションを通して理想郷をつくる
話は少し変わりますが、私は欧米の“ADVANCED FASHION”という本が大好きです。中には、90歳でターバンやグラサンしちゃうようなおばあちゃんばかり。本当にファッションを、人生を楽しんでいます。
欧米は人種のるつぼで、多種多様の文化や価値観が混ざって影響しあうからこそ出来たファッションがあります。
日本では島国だから厳しいかもしれない!でもでもあんな風に自分の好きな自由なファッションをすると、とても毎日を解放的に感じることができて、心から楽しく過ごせると思うのです。
だからこそ、毎日好きな服で365日楽しくなるような着まわしコーデ術を応援していきたいと思っています。
もちろん、外見からすべてが変わるわけではないですが、それが一つのきっかけとなって内面の自信へとつながり、自己解放できるようになる女性を増やしていきたいです。
人からどう思われるかということばかりを気にするファッションより、自分が楽しいファッションをすることで、気持ちも解放され、それが1人から2人、2人から3人、3人から10人と増えることで日本中に自由な風土が生まれるかなって思います。
自分を自由に表現することで自己を認め、自分を好きになり、他者も受け入れられる人が増えれば、“あなたの個性も素敵ね、私のはどうかしら?それもいいわね~”って、個を確立しながらも互いに影響し合える『理想郷』が出来て、日本はもっともっともっとハッピーになるって思うからです。
それって、本当の意味での『自由と平等』です。
長々とお話してきましたが、日本を、いや世界をその理想郷にすべく、一人一人の毎日を、ファッションを通して自由に楽しく解放的にできるように、みなさんの背中を押せたらと思っています。
最後まで読んで頂きありがとうございました。