自伝における糟糠の妻についての記述ということで政治家の尾崎咢堂(尾崎行雄)の自伝「咢堂自伝」に触れましたが当時の尾崎行雄(咢堂)の様子を小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より前回4月27日続きで紹介・引用いたします。

以下、小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より

彼は明治十二年、二十二歳のときに、恩師福沢諭吉の推薦によって、「新潟新聞」主筆となって、年の瀬も迫ったころ、上越国境を越えて赴任します。
このときの旅は一週間を要しました。

「そのころは汽車はまだない。
ようやく人力車ができたくらいで、旅は悠長なものであった。
熊谷、本庄、高崎、軽井沢等に泊まりを重ねて、六日目に長岡に着き、ここから船で新潟に赴いた。
新潟に着く前に、途中で日数がかかりすぎたので、旅費を使い尽くしてしまい、大いに困った」

というのが、自伝の記述ですが、どうして日数がかかりすぎたかということ自体の説明がありません。
凡俗の徒ならば、途中で宿の娘か女中とロマンスでもあったのではないかと憶測しかねません。
あるいは、二十二歳で主筆になれたので、有頂天になって、酒でも食らっていたのではないかと思う人もあるでしょう。

ところが、これが実は新婚旅行であり、そのために日数がかかったのであるから、驚くんです。
新婚旅行ということに驚く。それが書いてないことに驚く。
赴任前の結婚、そして新妻同伴の旅という事実をオミットしている尾崎咢堂の心情が理解しにくいからです。

もっとも、『咢堂自伝』は、明治三十八年、四十八歳の東京市長在任時代に、その夫人(繁子)の病死、そして尾崎三良の娘テオドラ(日本名英子)との結婚のことを述べています。
お母さんが英国人で、テオドラという名前の二世です。

自伝から引いた引用ですが、その部分に、
「私が年少時代から二十四年間、辛苦をともにした糟糠の妻を失ったのも、そのころのことであった。
先妻は長崎市田中という家の娘で、繁子といい、東京に留学していたとき、私はこれと結婚して、新潟に同伴した」という記述が見られます。

そして、「政党員となってから、書生や弟妹の世話をさせ、しかもろくに米塩費(生活費)を与えないで苦労させた。
いまから思えば、実に気の毒の至りである」
という哀惜の気持ちも述べられています。

けれども、繁子については、どういう出生か、どういう父であり、どういう母であるかというようなことから、どういう少女時代を過ごしたのか、どうして東京に来ていたのかということを、何も語りません。
多くを語っているのは後妻のテオドラです。
テオドラについては、そういうことがいっぱい書いてありますが、先妻繁子の記述部分は、あまりに簡略すぎます。
いま引用した数行に過ぎません。

上記は小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より引用いたしました。

尾崎咢堂の「咢堂自伝」に対して伝記作家として小島直記の見方というか小島直記ならではの人間観というものが感じられると同時に伝記作家としてのこだわりと矜持が自伝における糟糠の妻という部分にスポットを当てたのかも知れませんね。

今日は以上です。