戦前の歴史に興味のない人も多いと思います。

 人生の後半を考える年齢になり、昭和20年にフィリピンで戦死した伯父のことが気になりました。戸籍には「昭和20年7月23日、ルソン島キャンガン西方高地で戦死」と書かれています。26歳でした。

 神田の古書街に、戦記物の多いところが2~3軒あります。そこで何冊か買った中の分厚い写真集は米軍が写した写真がほとんどでした。日本軍には記録保存の習慣がなかったのか、又は終戦のときに焼却したのでしょう。

 1冊は、フィリピンの熱帯林に逃れ、ゲリラに追われ、餓死や病死の兵士、民間人が累々と横たわる生々しい戦記で、名前を聞いた記憶のある東京の弁護士さん(儀同弁護士)の著作でした。実際には何十人もの記録を集めたものが一冊になっている印象です。

 次は、自衛隊にも2年勤務した兵頭二十八(にそはち)さんの最近の本です。

 中国進出を中心として、東條英樹、石原莞爾(日蓮宗)など25人の重要な軍人の事跡を紹介しています。客観的な資料が表に出るようになりました。

 この軍人たちについて思ったことは、殆どが(普通大学でなく)陸軍大学校の出身者だったことです。

 極東裁判での死刑6人の内5人、終身禁固13人の内8人が陸大の出身、その他には東大が4人、海軍大が2人などです。

 参謀養成の中枢で少数精鋭の陸大(年100人くらい)は4年制、殆どは3年制の陸軍士官学校から、軍隊に入り、陸大を受験。士官学校は一般教養も重視されたようですが、それでも軍事に特化した少数精鋭の軍人教育システムです。

 陸軍はドイツ軍を範としました。

 

                    現在のキヤンガン高地

 

 ドイツは、幼年学校、士官学校、入隊、陸軍大学校となるようです。「死に方を習う」という基本のほかには、意外に「新鮮な発想、理路整然とした思考」をモットーに、(上官に対する)「不服従」、(上官に)「内密裡に指揮する」、「上官は事細かな統制はしない」という文化とのことです。

 映画の中のナチスの将校が、優雅に描かれることが多いのは理由があるかもしれません。

 アメリカは、軍の少佐又は中佐の経験者が陸軍大学校に入るようです。教育機関や軍隊でドイツよりも「いじめ」が強いのは英米とのこと。イギリスとともに正規軍兵士を卑下し、規律を嫌う文化があるけれどもトップ級の発想力は他国を上回っているそうです。

 日本の戦前のシステムは、陸軍軍政部(政府内)が財政などを行い、参謀本部(軍令)は作戦を担当します。参謀本部が、天皇の統帥権に基づいて中国などの参謀に指令をしました。

 中国の現地参謀が、「新鮮な発想」で、「不服従」を厭わず、「事細かな統制を受けず」、政府や天皇にも「内密裡に指揮する」ことを是とする慣例だったとすると「張作霖の爆殺」や「満州事変」などがよく説明できます。

 ここで改めて思うことは、当時はイギリスがインドを、フランスがベトナムを、オランダがインドネシアを、アメリカがフィリピンを植民地にしていました。中国にはアメリカ、イギリス、ロシア、日本が進出しました。

 日本は、フィリピンや中国を占領しました。

 客観的に見て、日本が国際連盟や英米に従って、はい、はいと引き下がっていた場合、アジアやアフリカの植民地の多くは、今でも続いていたのではないか、ということがあります。それが参謀たちの隠れた誇りなのでしょう。

 また、参謀は各地の司令部の奥にいて、語弊を怖れずに言えば、参謀が民間人の殺傷を指示したケースは少ないと思われます。そこから、この時代の誇り高いエリートたちは戦犯などと言われながらも一定の名誉を保ちます。

 日本のなんとなく重苦しい空気の一端になっています。

 

 「キャンガン西方高地」とは、山下泰文大将最後の地で、倒れた兵士は、戦死の日時も場所も不明のまま、推測で戸籍に記載されたのでしょう。いつか慰問に訪れたいと思っています。