8月を過ぎましたが、文芸春秋の9月特別号で「戦前生まれの115人」を特集していました。
生まれ年で見ると大正1年から昭和20年までの115人でした。こういう角度で編集したものは何回か目にしたつもりでした。今回、何人かの人は「最近は文句が多すぎる」、「地方で農業を」、「世界でも稀な風土」などの角度から書いていますが、殆どの人は空襲、疎開、戦地への応召、空腹、戦後の混乱を書いています。
改めて100人以上の経験や思いを読むことにはこれまで感じてこなかった重みがありました。
私の場合、戦後の生まれで、身近では伯父がルソン島(首都マニラがある島)で戦死しているのですが、戦争の印象が強いとは言えません。理由は、それなりの町では空襲も現実だったのにそれがなかったこと、食料はもともと乏しかったので食糧事情もそれほど変化がなかったらしいこと、更になんとなく明るい教育を受けてきたなどという原因があるように思います。
若いころ、“戦後闇市派”の野坂昭如や、フィリピン戦の「野火」(お薦めです)の大岡昌平の小説も読んだつもりですが、この時代の人の人生について本当の重みを感じることがなかったようです。
そういうところで、医師の養老孟司さんが「患者は悪くなったり死ぬかもしれないので死体解剖の道を選んだ」と書いているのを見ても哲学か文学の例え話としか思えませんでした。
ある程度の年齢のせいか、今回改めて気づいたことがあります。単純なことですが、戦後にも7年くらいの占領の時代があったことです。当然ですが、それまでの敵が新しい目標と言われるようになりました。占領軍がいずれいなくなることは分っているけれども、次に来るものは実感がなかったでしょう。
昭和1年生まれの人を考えれば、20歳まで戦争の時代、20歳から30歳までは戦後の混乱期でした。「民主主義」にも染まることができず、価値観が崩れたままだった・・というのが普通の感覚で、これは誰も責めることはできません。
自分については、目黒に来てからも、そういう世代の方々との接触は普通にしてきました。
年配の経営者などの小さなグループに顔を出していたことも、また、1回だけ、銀座の軍歌の酒場に連れられて行って、上の世代が楽しそうに軍歌を歌っていることにも抵抗はありませんでした。
自分の感覚を譲るつもりもなく、他方では、その人たちに外国を倒そうとか、不逞な輩を探してたたいてやるというような感覚がないことも分かっていました。
それでも、心の隅では、世界につながる哲学が感じられないとか、「真善美」といわれても理解できないとか、農林業で終わった父親の人生もつかみどころがない・・などと、戦前生まれの人達の足らざるを意識する気持ちが残っていました。ちょっと取り返しのつかない懺悔です。
年配者には原則として逆らわないという気持ちは持ち続けていたので、失礼はなかったと思うのですが・・。
(なお、煌(きら)びやかな朱子学の世界につながるような憲法改正の道に同調できないことは後日書く予定です。)