「月」は、長野県が誇る大自然の例えです。

 他の県の人と話すと、その他では、必ずといっていいくらい「教育県ですね」と言われます。

 もう少し親しくなると、「長野県人は中途半端で自分勝手だ」(証券会社の幹部)、「長野県に金持ちはいない」(東北の事業家)、「長野の人は組織の上か下しかやろうとしない」(東京の警察署幹部)、「交通違反の取り締まりが高圧的」(女性修習生・現最高裁判事、他)、「銀行のトップを務めたような人まで話し方が変」(東京の経営者)、「山高きが故に尊からず」(林業団体の幹部)、「くねくねした山道を走っていると人間が小さくなる」(司馬遼太郎)などと言われます。

 くねくねした道というより、細分化した支配地域と裏山・・・?

 長野に縁のある者として適切な言葉が見つからないままの期間を経て、善光寺の存在に辿りつきました。「仏」です。

 善光寺は、信濃に本尊がもたらされてから1400年(現在地では1372年)、仏教の宗派が生まれる前だったために今でも無宗派で、住職は2人、うち1人の上人(しょうにん)は古来から宮中から号と紫衣(しえ)着用の許しがあり、就任時に宮中に参内(さんだい)するそうです。初代は曽我馬子の娘、その後も公家の家系が嗣ぐことになっていて、今の上人は鷹司(たかつかさ)家からといいます。権威という点では県庁と並ぶもしれません。しかし、近年の内紛で低下したかもしれません。

 長野には、更に諏訪大社(691年、持統朝のころ)、戸隠神社(685年、同)もあります。戸隠は平安時代以降、天台(比叡山)、真言(高野山)に並ぶ修験者(しゅげんじゃ)を集めたそうです。5月末でも雪の残る戸隠の奥社に足を踏み入れれば、雰囲気の一端を感じることができます。

           戸隠奥社

 善光寺について、注目することとして、40軒近くもある宿坊があります。善光寺系列の旅館といえます。仁王門の中の敷地の数十軒の土産物店や飲食店もあります。

 市内にこれを上回る規模のところはないと思います。

 フランス学の篠沢教授によれば、外国から「善光寺参りのような土俗的な因習の日本」と言われるそうです。これに対して教授は「現在に眠っている壮大な過去」を持っていることは、フランスにも似たところがあり、キリスト教文化によって剥ぎ落とされていないものがあるといいます。

 善光寺参りは、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの徒歩の巡礼や、エレサレムへの巡礼と共通性があると思います。

 そういえばアメリカ映画の『硫黄島からの手紙』で取り上げられた栗林中将は松代の出身、ノモンハン事件で総司令部を批判し、自決命令を拒否した須見新一郎連隊長が上山田温泉に移り住んだことなど、一種の冷静な芯を感じさせる人達が心を寄せていることも風土と関係があるかもしれません。

 終戦後に旧皇族の財産を西武資本が買いたたいたことを批判する本で売り出し、孤高の評論家として行財政改革にかかわり、短かい間都知事を務めた長野出身の作家も孤高の気配でした。

 ここのところ、上田市の隣の坂城町(さかきまち)出身でセブン・イレブンCEOの鈴木敏文氏を除くと、長野出身で際立った経済人や政治家は思い浮かびません。

 小林一茶(~1828年)に寄せられた句「信濃では月と仏とおらがそば」に書かれた「月と仏」の精神だけでは、偏狭に通じます。大きな空気には逆らわない一方で、外部の人を対等な目線で見ない、客として迎える姿勢がないなど、権高いところも感じます。

 月と仏の心を現代社会と調和させれば、すべての人とも伍していけると思うのですが……。