ブログを消していないことに意味はあるのか。
実をいうと、ある。
虚をいうと、ない。(情報量0)
別に私がこの続きを書いて、何らかの反応、承認欲求や身体的疲労を得る礎として残しているわけではないし、消す労力を惜しんでいるわけでもない。
ならなぜ残しているか。
ここは一応、記憶の一部だからだ。かつての栄光、そしておそらく、最も頭が回ったころの思考の沈殿物。
人は老いると思考ができなくなるし、頭の回転エネルギーの低い人と話すと思考をしなくてよくなる。
実際に今、僕の頭はゆるりとしか動いていない。とがった部分もなく、速度も速くない。
かつて僕がよく言っていたことの一つが、「一度頭がよくなってしまった人は愚かになることはできない」だった。
なぜなら
あれ。
ああ。なんだったか。このように昔なら一昼夜かけても語りつくせぬほどの思いが込められた言葉だったのに、意味すら思い出せない。こんな自分は愚かだ。
そして幸せだ。
もう一つ言っていたことがある。「愚かでなければ幸せになれない」
自分は今、最高に愚かである。愚かになることはできない、という諦念を自ら打ち破ったのだ。愚かである幸せは何にも勝るまい。
だって、それより上位の幸せを論じたところで、愚かだから、理解できないのだ。現状以上の幸せを認知できない、つまり周りを見渡せど自分より幸せなものなどいないのだ。今の私は無敵である。
ただ、このブログのような過去の残滓が糾弾してくることはままある。無敵とはなんだ。気づかぬうちにやられているだけではないか。
愚かになることはできない、って今の自分がまさに体現してるでないか?過去の記憶をたどり、昔と比べ、できてないことを認知する。つまり上があることを自覚してしまっている。たしか愚かになることはできない、というのは、過去の自分と比べてしまうから、過去の自分と比較可能な事象については上が見えてしまって苦しむ、ということだった気もする。無敵なのに敗北だ。
無敵と敗北は背反ではない。すべてに負けても、相手にしなければ無敵は維持できる。ただ成長はない。成長の無意味さを論じたいが、愚かだからもう疲れた。向上心のない人間で悪かったな。そんなものボトルに詰めて海に流しておけ。いつか巡って自分のもとに還ってきたとき、拾い上げてやろう。おやすみ。
追記
え、近況報告ですか?
まあ、元気です。ちゃんと数学科卒業したし働いてます。私えらい。
学んだ内容を理解しなかったし生かしてもいない、大衆的な愚かものですねー。