今回の記事では、「北畠親房(きたばたけ ちかふさ)」の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を紹介します。

ですので、前回と同じ記述も出てきます。

ご承知ください。


この書は、鎌倉時代の日本人が、世界や日本をどのように認識していたかを理解する手がかりになります。


改めて、人物とその書を紹介するところから始めたおと思います。


すでに知っている方は、飛ばして先に進んでください。



 「北畠親房(ウィキペディア)」

 「1293~1354 後醍醐・後村上天皇に仕えた南朝の重臣。吉野や常陸小田城などで作戦を指揮し、南朝勢力の保持・拡充に努めた(日本史用語集)」


 「神皇正統記」


 「北畠親房が常陸小田城で北朝と対戦しながら執筆した歴史書。1339年成立。『大日本国は神国なり』に始まり、神代より後村上天皇までの皇位継承の経緯を述べており、大義名分論に基づいて、南朝の正統性を主張している(日本史用語集)」」


 以下の文(茶色)は、「神皇正統記(慈円 北畠親房 日本の名著9 中央公論社)」からの引用になります。


○ 「中国と日本の違いについて」


・中国はとりわけ乱逆(らんぎゃく)で、秩序のない国である。昔、世

 の中がすなおで道が正しかった堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時代で

 も賢者をえらんで王位につかせることがあったから、皇統が定まって

 いるということはない。


 堯舜の時代といえば、中国ではとても国が良く治められていて、後の世からも理想とされた時代です。



 「堯舜(ぎょうしゅん)」


 「中国の伝説上の帝王、堯と舜。徳をもって理想的な仁政を行ったこ

 とで、後世の帝王の模範とされた(大辞泉)」


 

 その理想的な時代でさえ、親房は批判的な見方をしていることが分かります。
 日本が同じ家系の天皇が続いていることに対して、中国では「皇統が定まっているということはない」と中国のあり方を否定しています。


 隋や唐の時代では、日本は中国から進んだ学問を学び、優れた文物を輸入して国を発展させてきました


 中国は、日本にとって「教師」だった時代があったのだが、この親房の記述からは、「中国が、日本よりすべて優れていた」とは考えていないことがうかがえますね。


・夏・殷・周以後、乱世となり、力をもって国を争うこととなったか

 ら、民衆の中から出て王位についた者もあるし、辺境の戎狄(じゅう

 てき)(戎は西方、狄は北方のえびす)から身をおこして国を奪った

 者もある。

  あるいは代々王臣の身でありながらその君主を圧倒して

 つ いに王位を譲りうけた者もある。伏犠氏ののち、中国では天子の

 氏姓・王朝の交替は三十六に及んでいるから、乱れのはげしさは言 

 語道断というほかはない。


 中国では、周の後に春秋戦国時代という大混乱の時代を迎えています。


 その乱れた時代に終止符を打ったのが秦の政(せい)という人物で、後に始皇帝と呼ばれることになりました。

   始皇帝(ウィキペディアより)


 

 「前259~前210 中国をはじめて統一した秦の王。統一後皇帝を称し(在位前221~前210)、法家思想に基づく中央集権策を強行した

                                (世界史用語集)」


 しかし、その後、秦の始皇帝の家系が中国を治めることはなく、別の血を引く人間が皇帝となったり、13世紀にはモンゴル族という異民族が中国を支配したりしています。


 こうした統治の一貫性のなさを、親房は「乱れのはげしさは言語道断というほかはない」と厳しく断じています。

 この点でも、やはり、中国への崇拝の念は感じられませんね。


 これは、モンゴル軍を退けた(元寇)ことも影響しているでしょうか?


 親房は、「中国はころころと王朝が変わってしまうのに、日本は同じ天皇家がずっと治めている」という点において、日本が中国より優れていると考えています。


 では、このことを中国側はどう見ていたでしょうか?


 ここでは、「『宋史』日本伝(岩波文庫)」から、宋の二代目の皇帝(太宗)の言葉を紹介します。



・「その国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲している

 ことを聞き、嘆息して宰相にいうには『これは島夷にすぎない。それ

 なのに世祚(せいそ:代々の位)は遐久(かきゅう:はるかにひさし

 い)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古の道

 である』」


 中国の皇帝も、親房の言う「皇位の継承に乱れはなく皇統が一筋で乱れはなく」という日本こそが、「古(いにしえ)の道」である言っています。

そして、それが理想的な国の状態であると、ため息(嘆息)をついている。

 日本を「島夷」と軽んじながらも、この点には羨望の思いがあったようですね。

 中国では、王朝がよく変わり、その度に、多くの血が流されてきまし

たから、よけい、そう思ったのでしょう。


ちなみに、宋とは、このような国です。




「927~1276 五代十国(ごだいじっこく)の混乱を統一し、元のフビライによって滅ぼされるまでの中国王朝(世界史用語集)」



親房は、日本という国の特徴をこのようにとらえていました。



・この点、わが国のみは天地開闢の初め以来今日にいたるまで、天

 照大神の神意を受けて皇位の継承はすこしもみだれがない。



 この「皇位の継承はすこしもみだれがない」ということにおいては、平成の現在も「継続中」ですね。


 鎌倉、室町、戦国、江戸と時代が移り変わっても、まったく変わらない存在が日本にはあります。

この「不易と流行」が、日本という国の大きな特徴だと思います。


 この親房が指摘したことと似たことを、ある外国人が言っています。

 著名な文化人類学者の「レヴィ・ストロース」は、日本について、こう述べています。



「民族学者、文化人類学者として私が非常に素晴らしいと思うのは

日本が、最も近代的な面もおいても、最も遠い過去との絆を持続し

続けていることができるということです

                    (日本賛辞の至言33選 ごま書房)」


「日本には、一種の連続性という絆があり、それは、おそら

く、永遠で

はないとしても、今なお存続しているのです(同書)」




○ 聖武天皇の時代について


・この御代に大勢の高僧が来朝した。南天竺(インド)の婆羅門僧

 (菩提という)(菩提僊那)、林邑(りんおう)(ヴェトナム)の仏哲、唐の鑑真和尚などである。

 


 奈良時代に花開いた天平文化の様子が伝わってくるようですね。


 

 「天平文化」


 「聖武天皇の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の総称。盛唐文化を中心とする国際色豊かな文化(日本史用語集)」


 

 このとき来日したインド人とヴェトナム人の二人の僧侶が、東大寺にある大仏の開眼式を行って、奈良の大仏を「完成」させています。


 鑑真和尚は、中学生のころに習ったおなじみの人物ですね。


「鑑真」


「688?~763 唐僧。日本への渡来を決意し、失敗を重ね盲目となりながら6度目の753年に達成。754年に入京して戒律を伝える。東大寺に初めて戒壇を設け、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らに授戒。のちに唐招提寺を開く(日本史用語集)」



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