ここだ。私は、エントランスに置かれたフライヤーを認めた。その写真がバイオリニストであることも。確かにこの前を通ったことがある。それも幾度となく。だが、ここが、カフェレストランであることも、また、このビルディング自体も全く気付かない仕儀だった。実は、この界隈を電車に乗らず北浜、淀屋橋へと歩くことがあった。別段のものでもない。街なかにあって、キタやミナミといった繁華街とは違い、人影がまばらで、逆に、ゆきし日の情緒としかいえない機微にふれられる、そういう想いに至らせるからだ。そういったありもしない期待を寄せてもいたのだ。

 店の中心に大きなテーブルが据えられていた。ここが相応しいか。私は、連れ添う者もなく一人訪れたていた。大抵は、家族あるいは友達と一緒だった。だから、二人もしくは四人で掛ける小さなテーブルは、そういった人のためにあるとはばかれた。ならば、お一人むきのこのテーブルを。


「詰めてもらえる?」

 横柄な物言いだった。だが、それに従うかのように、私は、隣の椅子に置いてた鞄を持ち、そのままそこへ移りはした。ただ、そのおり、幾分か訝しげな雰囲気を醸し出した。

「いらしていたのね?」

 先ほどとは違うしおらしさがあった。ただ、ほだされるものでもないが、少なからずあった嫌悪の感を示すのは止めることにした。こうして、少しは、会話が持てる様になった。

「お嬢さんとfacebookで友達になっていたとは。」

 必然的であったといえた。だが、婉曲的な言い方しか出来なかった。こんな具合に。やはりそうだろう。今や他人なんだから。この催しを知ったのは、タイムラインの投稿だった。きっと隣に座る彼女も。もっとも察しはついていたが、間をもたすために聴いていた。そうして、彼女も同様であったと応えてくれた。

「亡くなったお母様には、大変お世話になったもの。」

 然りだ。そう、このバイオリニストのお母様に。ある意味、恩に報いるためでもあった。


 甘美な音色だった。哀愁の漂う旋律。確かこれは。だが,その題名が思い出せない。かく、もどかしくあった。ある所以があったからだ。

「瑠璃、この曲が好きだった。」

 この彼女の言葉に、畢竟、あの日の病院での光景へと誘うのだった。

「先生が弾いているみたいだ。」

 あたかも人が唄う様にバイオリンは旋律を奏でていた。歌心、それを感じていた。

「だってお嬢様だも」

 もちろんだとも、そう述べてみたかった。だが、気が引けた。

「愛の〜…」

「愛の悲しみ。クライスラー。」

 あの日、先生は、娘の入院する病院を慰問し、ロビーでコンサートを開いてくれた。そのおり、これを演奏してくれた。それにしても、“クライスラー”は余計だ。今回は、バッハの無伴奏曲の演奏会だったが、奏者は、開演までの僅かな時間、BGMとしてクライスラーを弾いてくれた。

「瑠璃は、熱心に聴いていた。」

 彼女のこの言葉に対して、単にそうだったと言えなかった。もちろん、その姿に見たのは、娘の内面の成長であろうが、虚しさがつきまとう。何分、病魔に冒されていたから。そうして、演奏が始まった。ロ短調のパルティータ。Allemandeの序奏、ありえないほどの硬直を体に覚えた。やはり、自身で律しきれないものがある、それを感覚として捉えうる世界がバッハの無伴奏にはあった。極めて内省的だった。視界は表象と化し、奏でられる音楽と乖離した感じがしてきた。


「好きなバイオリンが弾けなくなって…」

 呼応する言葉が思い浮かばなかった。そんな彼女に、相応しくある物言いが。しばしの休憩での仕儀だ。私は、続くプログラム、ソナタのイ短調が始まらないかと考えていた。そうすれば、さっきのロ短調と同じ感覚に浸れるはずだと。

 娘はALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った。だから、弾けなくなった。瑠璃にバイオリンを習わせようと考えたのはここにいる別れた妻の考えだった。自身でもピアノを弾き、音楽教室を開いていた。そして、将来は娘の瑠璃とステージで共に演奏するのだと。ままならないものだ。そうして通わせたのが、今日、演奏する御令嬢の母君の元だった。師として優しく接してくれた。だが、思わぬ発病。私たち夫婦の気を慮り、先生は娘の入院する病院で演奏会を開いてくれた。


 終演後、御令嬢は、各テーブルをまわり、客人に会話をもった。だが、私は、単に儀礼的だと揶揄されかねない言葉しか発せられなかった。そう、「良かったです」のひと言のみという、無粋な有様で。

「相変わらずね。」

「仕方がないだろう。ピアノを教えてる君とは違う。社交的でないんだから。」

 娘の瑠璃が死んでからというもの、誰に対しても心を閉ざしてしまった。ここにいる別れた妻に対しても。

「分かっているよ。いい夫じゃなかった。だから君から三下り半を突き付けられたって。」

「三下り半なんて。悪いのはお互いよ。でも、変わっていないわね。」

「何が」

「ケーキよ」

 洋梨のタルトを食していた。

「いつも買ってくるのはフルーツのケーキだった。」

「つい彩りに惹かれて買ってしまう。覚えているもんだね。」

 週末のケーキを妻も娘も楽しみにしてくれていた。

「離婚して相当たつけど、他人にはなりきれないものね。」

 思わず口をつきそうになる。「そういったものだ」と。しかし、ためらう。気恥ずかしくあったからか。未練が無い訳じゃないし。

 

 私は、店の前で彼女と別れた。そうして、何故か、訊ねるまでもないことをカフェの主人に聴いていた。このカフェから遠くないその場所を。そうして、そこに行き着く。全く変わっていない。そう、あの時と。多くのバイオリンが、掲げられていた。買うわけでもない。私は、窓越しに中を見つめていた。それは、この店の御仁からは十分訝しがられる次第だった。

 ふと気付く。彼女が、いや、別れた妻が同じく佇んでいるのを。

「あなたもバイオリン、始めたら?」

 それは、揶揄か。

「五十の手習い?まさか?」

 不意に。彼女は私の右腕に腕を組んできた。だが、照れからか、とまどいの色を出してしまった。ただ、彼女は、それを察しつつ笑むのだった。

「中に入らない?」

 そういえば、瑠璃のバイオリンを買ったときも。三人手を繋ぎ店に入ったのを思い出していた。だが、言葉に表されずにいた。

「あの時もこんなふうだった。」

「だったな」

「時々会ったりしない?」

 更にとまどう。どうリアクションを取ればいい。咄嗟につく「確かに。友達から始めるのも」と。

「何それ?」

 彼女はくすりと笑ってくれた。幾分か和む。そうして、工房に二人して入った。