「分かっています。でも両親の気持ちを考ると。」
 もっと悪態をついてくれればいいのに。こんな風にしおらしくされると怒りや悔しさが萎えてしまう。
「本当にごめんなさい。先輩だったなんて」
 彼女は、私と同じ師の門下生だった。そう、同じ芸大音楽部で声楽、オペラを学んだ。でも、いつしか先輩後輩の図式は私の心の中では失せていた。むしろ、彼女の存在を常に意識下に置かざる得なくなっていた。そして、卑屈にも何不自由なく育った境遇をうらやみ、その天分に嫉妬を覚えていた。もちろん、せんないことだ。でも、一方で嫉妬やうらやみを持ってしまうのが自分の性分だと分かり始めていた。それは、畢竟彼女との距離を置く一因となった。それもあれほど自分のことを先輩と慕い、なついてくれたにもかかわらず。でも、皮肉にもある事柄でここで対峙するはめになった。
 それは、まさしく青天の霹靂。ことの起こりは楽団事務局からの電話だった。何分、演奏会での独唱を後輩と替わってほしいというものだっただけに。もちろん、事務局の説明のとおり打診の段階で正式に契約を交わしてはいなかった。でも、だからといって分かりました、とあっさり引き下がれるものでもなかった。それいうのも指揮が世界的なオーケストラのシェフに就任する方だし、演目がマーラーの交響曲第四番だからなおさらだ。来シーズンより、ドイツの名門楽団を率いることとなり、かつてシェフだった楽団として、その記念にマーラーの交響曲全曲演奏会が企画されたのだ。こういった場合、たいていは今がしゅんのN響の第九を唄う様なソリストが選ばれるのだが、指揮者の意向で若手からの起用となった。そういった次第で、まだキャリアの浅い私でも選ばれようとしたのだ。どんなに嬉しかったことか。メジャーなオーケストラのソリストを務められるのだから。だが、それもついえてしまった。しかも、私には理不尽な限りだ。彼女の両親が、楽団に一千万円の寄付を申し込んだ故の交替だからだ。
 それにしても海風が心地いい。デッキのテラス席にいると。カットピザとグラスワイン。そのスパークリングの気泡を恍惚と見入ってしまっていた。こうして彼女をここに呼び出すものの、やるせなさから虚しさを覚えていたのかもしれない。
「先生、どうしているかしら?そういえば連絡を取らなくなって随分となるわ。」
「先生って、甘いのよね。人を蹴落としてもというところがないから。同門のあの人は成功しているというのに。」
 海外に拠点を移してからというものの、連絡は途絶えてしまった。一説には日本に戻っているとも。彼女の言うとおり、同門の方は人気ソプラノとなり、主要な劇場でプリマを務めている。でも、彼女の、先生に対しての物言いとしては如何なものかと思った。
「先生に対して、そういう言い方はどうかしら。」
「先輩も甘いわ。人を蹴落としてもという気持ちがないと這い上がれないんじゃありません?白状します。今回の寄付ですが、先程は、両親が勝手にしたように言いましたけど、実は、私からお願いしたんです。あなたから奪い取るために。」
 今宵は満月だった。その美しい月影をこのデッキから眺めていると、ルサルカのアリアが脳裏に浮かんできた。その状況で怒りなんて起こるはずもなく、しばらく階段の手前で佇んでいた。そんな折、煮えきらない私に苛立ったのかもしれない。
「何だったら、私を突き飛ばしたら。警察には、私が階段から足を踏み外したって。こんな急な階段を落ちたら相当な怪我を負って、マーラーのソリストを降板になるかもしれない。そうなれば元通りあなたが独唱者になるかもね!」
「そんなこと、できるわけがないでしょう。」
 そう言って彼女より先に階段を降りた。でもこれだけは言っておこう。そして、立ち止まり振り返った。
「心配なされなくても結構よ。この復讐は遂げてみせるわ。」
 そう言ってまた階段を降りていった。