個性か、協調性か…無気力か | just an old occurrence*

個性か、協調性か…無気力か

<病理としての「どうでもいい」>
意識無意識
人は、意識で個性を求めるほど、無意識に協調性を求めているんじゃないか…。
そしてそのことによって、自分の心の中で葛藤が起きる。
大嫌いだけど大好き。そんな感情はこのような構造からくるものか…。なんてちょっと前から考えるようになった。
特に最近は個性というものが尊重される。反面欲求としての協調性も強くなる。
僕としては、個性を尊重すると言う事は、コミュニケーションする上でも、その人のキャラクターというものを重んじると言う事につながり、そのことがコミュニケーションの足かせになるんじゃないか…と思う。
(個性があることと、感受性豊かなことは違う…当たり前の事ですが。)
現代社会の病理といったものはこのような(図のような)構造によるものなんじゃないかな…って漠然と思う。
物事を好きと嫌いの二つに分けると、どうでもいいへの欲求が高まる。なぜなら、好きも嫌いも感情的には同じ衝動だから。
社会が、はっきり好き、とはっきり嫌いの間にある感情を捨て去る事によって、個人の中で、どうでもいいという感情が増える。
そしてメディアの中に、圧倒的な気力と、圧倒的無気力がある。それに対して、メディアの情報を受け取る側の、圧倒的支持と、圧倒的不支持、そしてどうでもいいがある。そしてメディアがそれに対して、強く強く訴える事によって、どうでもいいが増える。
そんな悪循環が、現代社会の病理なんじゃないか…なんて思う。

追記:この場合、個性というよりも、個別性と表現した方がよかったのかもしれません。


<参考>
斎藤 環  「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論