バレー部の顧問は「タイヤキ」っと呼ばれていた色白で髪の毛が茶色くて赤ら顔のおじさん先生。 タイヤキはバレーのことは余り詳しくないようだったがココ何年間か顧問を続けてきていた。 普段の練習には殆んど顔を見せず、練習は自分たちで決まったメニューをこなしていた。 各学年に10名以上おり、選手は最上級生のみで構成されていた。 さすがに成長期である中学時代は1年生と2年生と3年生では体系がお子ちゃまと大人ほどの差があったし、部員も沢山いたので変な縦の関係での問題は起きなかった。



1番 セッター  2年の夏、3年生が最後の大会を終えた時点で”天下”となる。 中学に入学してからの1年半の間、先輩たちのイエスマンに成り、下級生はコートの周りに両手を膝に置き中腰で声を出しながら玉拾いだけしていた。 3年のセッターの先輩がスパイク練習したいときには2年生をさておいてトスを上げさせてもらったこともあった。 3年生が抜けたあと2年生が沢山いたこともあって余りトス練習をさせてもらえなくなったが、ようやく自分たち学年も全員がパスをやらせてもらえるようになった。 

 そして、それから1年後いよいよ自分たちの天下になってから嬉しかったのはバレーが清々できることだけではなく、先輩間にあった暗黙の了解の服装の規正が解けて”アディダスのジャージ”を自由に着れるようになるとか、学ランも”中ラン”とか、裏地がギラギラした刺繍入りのものが着れたり、その頃流行の”ボンタン”っていう学生ズボンが穿けることが嬉しかった。 ボンタンも2タックがいいとか、3タックがいいとか、、、裾がシングルがいいとか、ダブルがいいとか、、、詰襟が3cmがいいとか、4cmがいいとか、、、袖のボタンが3つがいいとか、4つがいいとか、、、眉毛も細くして、剃りこみを入れて、坊主なのに必死に角刈りっぽく見せて、、、っと。 今考えると、マジに面白い時代だった。 ちょうどその頃から隠れてタバコを吸ったりする人も出てくるようにもなってきていたが、 何十年も経った今でも多分、中学の男子は同じようにタバコを初めて試しに口にしているだろう。 法律や規則やモラルがどうこうって言っても多感なこの時期に好奇心からいろんな事に挑戦するのは今も昔も当たり前で、それが理解できない大人やそのくらいのことを見守るキャパというか、器というか、余裕のある人間がいなくなってきたことが大問題なんじゃないかって、40を過ぎた今になって感じる。 まぁ、そんなことを言えた義理ではないが、、、。 


 

松山千春
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