石原氏の指摘は、原発容認派のお気楽さをよく露わしている、といえる。
彼は「原発への恐怖」を、「センチメント」として切り捨てようとしている。
彼の言うセンチメントとは、要するに「愚かな、流されやすい感情」ということらしい。
だが、感情を無視して社会も政治も語れない。
例えばナチスが、身障者をすべて処刑しようとした理屈も「センチメントの否定」にある。
「社会に役立たない障害者を、かわいそうだからという情念に流されて生かしておいても、社会全体の損失である」
・・・そもそも、なにをもって「愚かな感情・愚かではない感情」と決めるのか。
石原氏は、実に前半2ページも使って、そのへんを滔々と語っているが、そんな小難しい言葉では、あなたのいう「愚かな者」を説得できるワケもない(´Д`)
産経の安藤慶太氏などもそうだが、反対論を「愚かな感情論だ」とし、反対派を「騙されている、プロ市民だ」と決めつけ貶める事でしか、すでに原発容認の主張ができなくなっているのだ。
これでは、どちらが「センチメントな意見」なのか? 少なくともその言葉は、反対派には少しも届かないだろう(-ω-)
『その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。
人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。』
石原氏のこの「科学信仰」こそが、反対派には盲信・感情論と映る、という事を、まずは学ぶべきであろう。
【では、現実とは】
さて・・・現実に即して言えば、結論はこうだ。
再稼働には、地元の合意が必要である。
しかし、その合意を得るメドはまったく立たない。
メドが立たないという事は、原発は動かせる見通しがほとんどない、ということだ。
動かせもしない原発が存在する事を前提に、経済やエネルギーを語るのは、不確実で不毛である。
もし原発容認派が、「原発がないと大変な事になると知っている」と自認しているつもりなら・・・今すぐ現実を見て行動してほしい。
あなたがたは、原発の動かし方を知らない。
そして、原発がなくなったときの大変さを知っている。
だったらいますぐに、「その危機」に向けて、必死の対策を考えてほしい。
繰り返す。原発再稼働方法は、いまだ誰も見つけていないのだ。
「センチメント」を克服する手段は、誰も見つけていないのだ。
それが現実なのだ。現実に即した対策、すなわち「原発がなくて大変な社会」に即した対応を考えるのが、容認派の責務である。
『【脱原発代替案1】はじめに:大前提を整理する』 8/4
http://ameblo.jp/kitanotabito/entry-10958625698.html
『【脱原発代替案2】なぜ、原発を無くすのか? の整理』 8/5
http://ameblo.jp/kitanotabito/entry-10974326984.html
『【脱原発代替案3】エネルギー安全保障としての脱原発』 8/26
http://ameblo.jp/kitanotabito/entry-10998013772.html
『【脱原発代替案4】代替エネルギー』 9/15
http://ameblo.jp/kitanotabito/entry-11012510818.html
『【脱原発代替案5】政策面の提案』 9/30
http://ameblo.jp/kitanotabito/entry-11033166304.html
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