お金でも立派な家電でもない。誰もが望み、欲するものがある。それは安全と安心である。車が行き交う国道の真ん中で心地良い睡眠は得られないし、風雨に晒されるジャングルジムの頂上で安らかな時は過ごせない。人はいつだって安全と安心を求めている。

 

 

 雲の隙間から差し込む太陽の光に安らぎを感じたある日のことである。婆さんとホームの点字ブロックを清掃していると、大きな物音が耳に響いた。パタンッ、バンッ!

「あっ…!」

婆さんの手から滑り落ちた箒(ほうき)が、電車を通せんぼするかのように線路上に横たわった。

「ぱうぁっ…」

婆さんの口から断末魔の叫び、いや、呻き声が漏れた。

 

 

「かっ、会長…、大丈夫ですか?」

「ちょっと手が滑っただけよ」

「急いで駅務員を呼んできますね」

車掌をしていた頃であれば、すぐに飛び降りて箒を拾っただろう。だが、今の俺は清掃員である。許可なく線路に立ち入ることは出来ない。

「もう間に合わないわよ!」

「えっ…」

俺は電光掲示板に目を遣った。

 

※写真はイメージです。また、現在はホーム柵が設置されています。

 

「まずい…」

「アレを押すのよ!」

「アッ、アレとは??」

「アレよ! アタシが押すわ!」

 

※いたずら等で押すと、威力業務妨害罪で処罰される可能性があります。

 

「いっ、いや…、それは…」

人が落ちたのならば、躊躇なく押せる。だが、倒れているのは箒である。箒一本で電車を止めて良いのか…、俺は瞬時に判断をすることが出来なかった。そうこうしている間にも電車は迫ってくる…。あたふたとしていると、婆さんが俺を払いのけるようにしてボタンを押した。

 

 

大きな警告音が鳴り響いたりはしない。非常列車停止ボタンが押されると、線路脇に設置されている回転灯が一斉に光り出し、運転士はそれを見て非常ブレーキを作動させる(鉄道会社によって運転士に伝達する仕組みは異なります)。停まるのは駅に進入しようとしている列車だけには限られない。停車時間が長引けば、必然的に後続の列車は速度を落とし、状況によっては駅間に停車させなければならない。婆さんの"一押し"で運行ダイヤが大混乱し、何万人もの利用客に影響が及ぶ可能性があるのだ。

「かっ、会長…、大変なことをしてしまった気が…」

「あんた、何びくびくしてんのよ? アタシは大変なことにならないようにボタンを押したのよ!」

「いっ、いや…、そうは申されましても…」

「アタシは電車を止めただけよ! 大したことないわ!」

「いっ、いや…、電車を止めただけって…」

「…よく考えてみなさいよ。箒が当たって電車が壊れたり、弾き飛ばされてお客さんにぶつかったら、そっちの方が大変じゃないの! それに比べたら、電車を止めることなんて大したことないわ! 電車なんて止めればいいのよ!」

電車なんて止めればいい…、俺はその一言に懐かしさを感じた。そして、蘇ってくる記憶があった。教わってきたのだ。保たれる安全や守られる安心があるならば、電車なんて迷わず止めろと…。口にしていたのは、もちろん婆さんではない。教習所(運転士や車掌の養成所)の教官、乗務員の先輩たち、俺は彼らからそう繰り返し言い聞かされてきた。それは立場に関係なく、駅を利用する全ての人に向けられた言葉だと思う。婆さんはそれを実践したに過ぎない。かつて車掌をしていた俺よりもずっと優秀な"鉄道員"である。

 

 

 ざわつき始めたホームの喧騒を掻き分けるようにして、駅の課長が全速力で走ってきた。ボタンを押してから1分くらいだろうか。

「ごめんなさいね、箒を落としちゃったのよ」

「分かりました。今、拾いますからお待ち下さい」

課長は梯子(はしご)をかけて線路へ降り、箒を拾い上げてくれた。俺はどのように謝罪をするべきか、それだけで頭がいっぱいだった。

「本当に申し訳ございませんでした。以後、同様の事がないように十分に注意してまいります」

「そうですね…、注意していただかないと困ります。ですが…、よくボタンを押せましたね。なかなか勇気のいることだと思います」

「大したことないわ。あんなの何度でも押せるわよ」

「かっ、会長、インターホンじゃないんですから…。押すのは本当に必要な時だけにして下さい」

「そんなの当たり前じゃないの! でも…、今日はアタシの不注意でたくさんのお客さんに迷惑をかけちゃったわね。アタシはもう引退するわ」

「えっ…」

「仕事を辞めるわけじゃないわよ。アタシはまだ働きたいの。だから、ホームの掃除から引退するわ。アタシはトイレとコンコースだけにするわね」

「あっ、いや…、それは…」

次の言葉を見つけられずにいると、課長が婆さんに言った。

「会長さん…、もうすぐホーム柵が設置されるので大丈夫ですよ」

「ホーム柵…? あのブロック塀みたいなやつかしら。余計なもんは作らなくていいのよ。またアタシの仕事が増えちゃうじゃないの。塀の掃除は重労働なのよ」

「…目の不自由なお客様もいらっしゃいますし、夜は泥酔している方も少なくありません。全てのお客様が安心して利用できる駅にするのが私たちの務めなんです」

「そんなこと言われたら何も言い返せないわ。じゃあ、課長さんにも一緒に掃除してもらおうかしら、ガハハハハ」

 

 

文:清掃氏 絵:清掃氏・ ekakie(えかきえ)