まさかのシネマブログ
 こういう時に、明るく幸せな気分になれる映画を観るというのは、心のバランスをとるにはよいと思う。そこで、観終わって、とにかく幸せな気分になった「ロシュフォールの恋人たち」について書きます。

 何が幸せって、結ばれそうで結ばれない何組かのカップルが、終幕までにそれぞれのパートナーときっちり巡り合うから、他人事にも関わらず(映画の登場人物のことなんてそもそも他人事なんだけど)、「よかったよかった」と思えるのだ。そこから先の結婚生活の苦労とか浮気とか死とかは、この映画からは縁遠い。

 いや、本当は縁遠いなんてことはない。観客はついドヌーブとドルレアック(ついでにその母ダニエル・ダリュー)の恋の行方に目を奪われてしまうが、この映画では反対に、恋を失ってしまう男たちが登場する。

 ひとりは、ダリューの営むカフェの常連である初老の男。大学教授でもやっていそうな風貌で、軍隊の行列を見て「ゾッとする」とか言っている、どこにでもいそうなおじさんなのだが、彼が実は殺人者。あろうことかジャック・ドゥミ監督作品の永遠のヒロイン、ローラを切り刻んで殺してしまう(ローラとは、ドゥミ監督の出世作「ローラ」の主人公の踊り子で、「シェルブールの雨傘」にも名前だけ出てくる)。この陽気な愛すべき人たちばかりが登場する作品の中で、何度か人の口に上る殺人事件には違和感がある。なんでこういう挿話をわざわざ入れたのか?


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 世界各国の映画を観ていると、そのお国柄が作品から感じられる。フランス映画には、時々、フランス人独特というか、「なんでそうなる?」って感じさせられる場面が登場する。この映画のように、唐突に殺人事件の話が混じってきて、しかも本筋にはあまり関係がない作品のひとつに、クロード・ルルーシュ監督の「男と女Ⅱ」という映画がある。これはカンヌ映画祭グランプリをとった「男と女」の正当な続編。1作目ではスクリプター(記録係)だったアヌーク・エーメが、続編では映画プロデューサーになっている。彼女は「男と女」で描かれた自分たちの出会いをミュージカル化しようとするが挫折(おいおい…)、急遽同じキャストを使って、たまたま最近起こった殺人事件の真相を究明する映画を作り始める(おいおいおい…)。問題は、まだ犯人がはっきりしていないのに、ある人物を完全に犯人だと断定して映画を作っていることで、結果的には、それが本当に正しかったことがわかり、勇気を持って映画を作った映画人たち万歳!って結論になるのだけど、ちょっと待て。それは結果オーライ過ぎるだろ。しかし、そんな状況をさらりと一挿話で扱ってしまうフランス人の思考に私などは戸惑って、「フランス人ってこういう人」=「よくわかんない人」と感じてしまうのだ。それと同じ印象を「ロシュフォール」での殺人事件の扱い方にも感じる。

 ちなみに、「男と女Ⅱ」同様…というか現実に起こった事件を題材に、真相がわからない内に作られた映画が存在する。リチャード・フライシャー監督の「絞殺魔」がそれで、未解決事件ゆえにいかがなものかという反応があったようだが、映画としては傑作である。

 さて、もうひとりの失恋男は、ドヌーブの元カレの画商である。どうしてドヌーブがこんな男と付き合っていたのかわからないが、陰気で嫉妬深く、始終「金、金」と騒いでいるような感じの男だ。ピストルで絵の具の入った風船を撃って、前衛アートっぽいのを作ったりもしている。男は「必ず君を自分の妻にする」と言うが、ドヌーブはとりあわない。「あなたは『時は金なり』って言うけど、私は『時は愛なり』って言うわ」なんて歌う(サントラでは「デルフィーヌとランシアン」というタイトル)。この歌は素晴らしい。そして、観客は現実の世界では決してドヌーブが歌うのような夢はかなわないと知っている。だから、なおさら、ここで『時は愛』と歌うドヌーブに、儚さ、それゆえの美しさ、愛おしさを感じるのだ。

 「幸福」を描くためには「不幸」や「幸福に至るまでの困難」を描かなければならないのだろう。おそらく、その対比のためにこれらの不幸な男たちが配置されているのだと思う。しかも、必要以上に作品に影を落としてはいけないから、後を引かないよう、殺人や嫉妬がさらりと描かれる。だから、映画が終わった瞬間には、「これは誰もが幸せになる映画だ」と観客は錯覚する。

 音楽について。

 「ローラ」「シェルブールの雨傘」から引き続きミシェル・ルグランが担当している。音楽については、好き嫌いの範囲でしか言えないが、サントラを何度も聴いてしまうくらい素晴らしい。以前はフランス映画というとフランシス・レイの「ダバダバダ」があまりにも印象的で、たとえばフランス好きらしい大貫妙子や坂本龍一のそれっぽい曲にもフランシス・レイの影響を感じ取ったものだが、音楽のバリエーションの広さと同時に、キャッチーな曲もきっちり仕上げる才能から、今まで観た映画で、最も好きな映画音楽の作曲家はミシェル・ルグランが、自分の中では不動になった。ルグランは、ドゥミに付き合うあまりに「ベルサイユのバラ」や、これはドゥミとは関係ないが日本の漫画つながりで手塚治虫の実写版「火の鳥」の音楽まで手がけている。

 「ロシュフォール」に話を戻せば、個々の曲はそれぞれ出来がいいのだが、クライマックスでそれらの曲を続けて歌う場面では、曲がうまくつながっていないのが玉に瑕。ここの場面、「ウエスト・サイド物語」でいえば、全登場人物の思いが交錯する「トゥナイト・メドレー」と同じなのだけど、まったく違う曲が大胆につながっていく面白さが感じられない。

 同じメドレー的な展開ならば、「殺人事件現場でドルレアックがジャック・ペラン演じる水兵に出くわす」→「ペランがジーン・ケリーに道を聞かれる」→「ケリーが祭りの衣装をかかえたドヌーブとぶつかる」→「ドヌーブがドルレアックに衣装を見せる」という場面の方が、歌は1曲だが、お祭り前日のワクワク感を伝えてくれる。彼らの後ろで踊っているダンサーたちの稚拙な振り付けがまた、この町が祭りで浮かれて、どんどん狂っていく(いやいや、本当に狂うわけじゃないんだが)感じで、まさに浮世離れしたひとときの夢の世界のようで、本当に人が愛のことだけを考えて暮らせたら…、どんな時でも気持ちを歌と踊りで表現できたら…、実在する町ではなく、この映画の中だけにあるロシュフォールの町に住めたら、なんて幸せだろうと思ってしまう。

 この映画は、そういった、現実にはありえない、夢のように幸福な閉じた世界の創造に成功していると思う。ミュージカルに抵抗がない方ならぜひ。



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