「吉良の仁吉」をご存じですか。


 講談や浪曲がお好きな方ならご存じのことと思います。幕末の侠客で、有名な清水の次郎長の兄弟分。義理に厚く、「荒神山の喧嘩」と呼ばれる抗争で28年の短い生涯を終えた仁吉ですが、その生き様は、尾﨑士郎が小説に描いていますし、講談や浪曲のほか、演劇や映画、歌謡曲にも登場します。戦前から戦後にかけて芸者歌手として活躍した「美ち奴」が歌い、後に杉良太郎がカバーした曲「吉良の仁吉」もその1つ。


 その仁吉と木曽とどういうつながりがあるかって? 個人的趣味でこのブログを書いているわけではありません。(個人的興味はありますが。)仁吉は三州吉良、今の愛知県吉良町に生まれ、次郎長の下で修業を積んだ後、故郷に帰って一家を興すも伊勢荒神山で命を落としてしまうわけですが、これだけでは木曽とは何の関わりもありません。


 その仁吉の霊神碑が、どういうわけか木曽町三岳の山里にあります。県道上松御岳線を白川沿いに遡行すると、道路の左側に数基の霊神碑と一緒にくだんの霊神碑が建っています。

木曽路名水探検隊のブログ-仁吉の霊神碑1


 「霊神碑」については、以前、拙稿 でご紹介しましたが、ここで復習。霊神碑はもともと、御嶽開山の祖、覚明・普寛両行者の霊を御嶽山中に祀ったのが始まりとされ、御嶽教の広がりとともに、「聖なる御嶽から生を受け、神のご縁によってそれぞれの家に生まれた霊魂は、死後再び御嶽に帰る」という宗教観が生まれ、御嶽の近くに霊神碑を建立する風習が広まったのだそうです。「霊神」の前に付く文字についても、所属する講社の流派による傾向が見られ、覚明行者を信奉する講社は「覚」の字、普寛行者を信奉するものは「普」の字、両行者に続いて現われた一心行者の流れを汲む一派は「心」の字をそれぞれ好んで用いるようです。

 それはさておき、くだんの霊神碑には「吉良仁吉」に続いて「四代目大寶教 覚仁霊神」と彫られています。「覚」は覚明系の講社であることを表し、「仁」は「仁吉」にちなんで取られたのだと推測されます。そうなると、この霊神碑は仁吉のものかと思いたくなりますが、その隣に並ぶ「俗名何某」の文字に新たな疑問が。


 そこにはこの霊神碑の主であろうご夫妻のお名前が刻まれていますが、仁吉の本名は「太田仁吉」。結婚暦はないとされています。となると、この霊神碑にはどのようないわれがあるのでしょう。謎は深まるばかりです。


 謎と言えば、霊神碑の両脇に彫られた著名人の名前の数々も謎です。向かって右側には主に昭和30年代に活躍した横綱、大関が8人名を連ね、左側にはこれまた往年の歌手や俳優の名が8人並んでいます。居並ぶ歌手の中でただ1人の俳優が大川橋蔵。大川橋蔵と言えば、彼が扮する銭形平次の投げる寛永通宝が見事に敵に命中するシーンには、幼心に結果が分かっていてもドキドキしたものでした。

木曽路名水探検隊のブログ-仁吉の霊神碑2


 それはさておき、義理にたおれた侠客の名が彫られ、往年の名力士やスターたちが名を連ねるこの霊神碑。いったいどんな秘密が隠されているのでしょうか。(aki