大正10年から同12年にかけて、大同電力(現在の関西電力)によって、木曽谷に我国最大出力の水路式発電所が建設された。
南木曽町の読書発電所である。
水路式発電所は、ダムから取水し、その水を落として発電機を回す方式だが、読書発電所の場合、読書ダムは大桑村野尻地区(現在のフォレスパ木曽の前あたり)にあり、発電所は読書地区の、ちょうど中津川方面と飯田方面との分かれ道あたりにあるので、そこまでの間、10km近くも水を流さなければ発電所まで行き着くことができない。
なぜ大桑村野尻地区で取水して南木曽町読書まで運ばなければならなかったのか、素人には判断しかねるところだが、多くの水を貯める場所(ダム)と、まとまった平地(発電所)では、全く別の立地になるだろうことは、想像がつく。
しかし、読書地籍まで自然の傾斜を使いながら水を運ぶためには、ひとつ問題があった。
柿其川をまたがねばならなかったのだ。
そこで建設されたのが、この柿其水路橋だ。
柿其水路橋は、延長142.4メートル、鉄筋コンクリート造で幅6.6m 高さ5.5m。
二連のアーチと多くの支柱で支える構造となっているが、アーチでまたいでいるのは、柿其川と側道だ。
知らずにいると、その巨大さから、電車か車が走っているように感じるのだが、通っている(流れている)のは、間違いなく木曽川の水。
10kmも上流の水を取水して、水路で流して発電所にズドンと落とす。
勝手な想像をめぐらすと、急流が走っているのだろうか。
水路橋を上から見てみよう。
ん?普通… 穏やかな水の流れだ。
水路部分を見る限りでは、大正時代のものとは感じられない造りだが、目を転じると、要石や笠石まである坑口が…
ここから地中に水路が走っているかと思うと、目に見える巨大な水路橋以上に先人の苦労が偲ばれる。
こうして、10km近くも運ばれた水は、読書発電所により、関西地区を中心とした各地の電力供給に重要な役割を果たすこととなる。(momo)