yoko さんのブログ でも触れられていますが、車道から二又橋へと道が分かれる場所の少し手前を流れる沢に、何とも風情のある石積の橋が架かっていました。(「名もなき橋」と題しましたが、きっと名前は付いているでしょうね。)

木曽路名水探検隊のブログ-ポータル1


 橋の入口に向かって簡易舗装が施され、工事用なのか沢伝いに仮道まで設置されているではありませんか。この状況に、「橋ヲタク」の血が騒がないはずがありません。同僚隊員を尻目に、早速橋の中へと向かう隊員若干1名。

木曽路名水探検隊のブログ-ポータル2


 ポータルは切石を丁寧に積み重ねた構造になっていて、時代を感じさせます。橋というよりもちょっとしたトンネルのような外観。トンネルの中に入ると、入口に裸電球が1つ灯っていました。昼間はそれほど暗い感じはしないので、夜にでも通る人がいるのでしょうか。

木曽路名水探検隊のブログ-内部


 出口は味気ないコンクリート製。

木曽路名水探検隊のブログ-出口


 実はこの橋。この辺は中央西線と国道19号が並走するところで、双方の橋がくっついていたんですね。築造年代の違いから、入口と出口とで構造が異なっていたというわけです。石積のもう一方の端はこんな感じ。

木曽路名水探検隊のブログ-つなぎ目1


 つなぎ目はこんな感じです(ピンボケですみません)。

木曽路名水探検隊のブログ-つなぎ目2


 調べてみると、名古屋から木曽福島に向かって敷設されてきた中央本線(当時はまだ「中央本線」という名称はありません。)が、十二兼の1つ福島寄りの野尻まで延伸したのが明治42年(1909年)9月ですから、入口の石積の方はおそらくそのころ造られたものと思われます。国道19号の橋は興味がわかなかったので調べていませんが、時代はだいぶ下るでしょう。


 南木曽町を少し南下したところにある「久保洞水路橋 」はこの橋よりもずっと規模の大きい橋ですが、やはりこの橋のように丁寧な石積の橋です。今日のようにコンクリート橋の技術がなかったのでしょうが、いかにも手造り感があり、温かみを感じるのは私だけでしょうか。


 ところで、この橋が造られた当時、十二兼駅はまだありませんでした。十二兼駅は、もともと昭和4年(1929年)に十二兼信号場として設置され、駅に昇格するのは昭和23年(1948年)9月のこととか。(aki



(追記)せせらぎの清らかな流れに目を奪われた隊員とは対照的です。