今回の探検に先立つ11月下旬、仕事の現地調査で上司と南木曽町を訪れたのが、この場所を探検するそもそもの発端です。


 その日は、南木曽町内を何か所か回った後、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている妻籠宿で、「妻籠を愛する会」の方からいろいろとお話をお聞きしました。その後、その方の案内で実地調査に向かうことになり、主要地方道中津川南木曽線を雄滝・雌滝方面に向かって上る途中、珍しいところへ案内してくださるというので連れて行っていただいたのが、この「大崖砂防堰堤跡」です。


 今回の探検の車中で提案したところ、砂防堰堤も広い意味では「水ネタ」に当てはまるのではということで、馬籠峠の水場に向かう途中で急きょ立ち寄ることに。事前の準備もなく訪れたので、案内標柱を危うく見逃すところでした。妻籠方面から上っていくと、下り谷橋を過ぎて雄滝・雌滝手前で九十九折れが終わる辺りの道路右手にひっそりと標柱が立っています。


 その先は林道で結構な勾配。道幅も狭く、路肩には縁石もありません。はみ出したらそのまま木にぶつかりそうな心細い道。確実に「対向車が来たらどうしよう」と運転者に不安を抱かせる道ですが、それでもちゃんと舗装は施されています。恐る恐るその道を上った先に、案外広い駐車場と四阿が整備された「大崖砂防公園」があります。砂防公園はこの日2か所目。砂防関係者でなければ「砂防マニア」ですね。木曽路名水探検隊のブログ-大崖砂防堰堤 案内板1


 植込みの間に下へ続く石段が刻まれ、その先に堰堤の一部が顔を覗かせています。植込みや石段は後から設けたものでしょうが、見ようによっては古墳のようにも見えます。公園には、由緒が書かれた案内板のほかに図解が施された案内板も設置されていて、この遺構が古墳ではなく砂防堰堤であることが分かります。

木曽路名水探検隊のブログ-大崖砂防堰堤


 この辺は、妻籠宿に沿って流れる蘭(あららぎ)川に合流する男埵(おだる)川の上流、大ガケ沢の沢筋で、その名が示すとおり、昔から土砂崩れの多発地帯でした。文明開化とともに、国内各地で明治政府による近代的な土木工事が行われるようになりますが、この堰堤も明治13年(1880年)ごろに造られたとされています。ここで活躍するのが、「滑川」のブログに登場したオランダ人技術者のヨハニス・デ・レーケ。明治11年(1878年)にこの地を視察したデ・レーケは、現地の惨状を目の当たりにし、内務省に砂防工事の必要性を進言しました。その指導に基づいて造られたのがこの堰堤です。

木曽路名水探検隊のブログ-大崖砂防堰堤 案内板2


 ところで、このデ・レーケ。1842年にオランダに生まれ、西洋の学問や技術の導入に躍起になっていた明治政府の招きに応じて、1873年に来日します。砂防や治山の分野での技術的助言や現地指導等で活躍し、後年「砂防の父」として高い評価を受けることになります。明治政府に招かれて来日した、いわゆる「お雇い外国人」の多くが早々と帰国する中、レーケは30年の永きにわたってわが国にとどまり、各地に功績を残しました。

木曽路名水探検隊のブログ


 滑川砂防公園には、デ・レーケの功績を称えて、レリーフの施された碑が建立されていますが、その中で引用されている、明治13年に木曽を実地検分したときの彼の巡回日誌にも、滑川の治水は、段階的に幾つかの横堰堤を築いて土砂の流下を防ぐ必要があること、また、その築堤には巨費を投ずべきことを同行者に語った記録があります。彼の指摘から100年以上の歳月を経て、滑川には国によって大規模な砂防ダムが建設されており、彼の技術者としての高い先見性を窺うことができます。

木曽路名水探検隊のブログ-滑川砂防ダム


 それはさておき、大崖砂防堰堤は、現地の石を砕いて台形に積み上げたもので、高さ5メートル、長さは50メートルあったと推定されています。「姫淵」後編のコメントでもふれましたが、明治13年に明治天皇が木曽を巡幸した際、天皇が自ら堰堤の工事現場を視察するというので、当局が作業員を2000人余りに増やしたという逸話が残っているとか。その後、堰堤は完全に土砂に埋もれてしまいますが、昭和57年(1982年)、林道工事中におよそ100年ぶりに地下約2メートルのところから発見されたことから、明治天皇の「信濃御巡幸記録」を基に、当時の建設省と南木曽町が共同で発掘を行いました。古い石積みの堰堤は全国各地で見つかっていますが、県内では最古のものとされているそうです。傷みもなく、ほぼ原形をとどめていることから、砂防技術の歴史を知る上で貴重な遺構とされています。

木曽路名水探検隊のブログ-大崖砂防堰堤


 堰堤跡はその後、昭和62年(1987年)に木曽川治水百周年記念事業の一環として、建設省と南木曽町により砂防公園として整備され、さらに平成21年(2009年)には経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。

木曽路名水探検隊のブログ-大崖砂防公園


 これほどまでに各地に功績を残したデ・レーケでしたが、竣工の記念式典や記念碑に彼の名が出ることは全くなかったそうです。それは、政府内に、彼はあくまで「お雇い外国人」としての裏方で、事業を決定し施工するのは日本側だという考え方があったとか。そんな扱いを受けたにもかかわらず、30年もの間日本にとどまって日本人のために技術指導に徹したデ・レーケ。皆さんも是非一度ここを訪れて、彼の偉業に接してみてはいかがでしょうか。(aki)