霜月も下旬のこの日。夜来の雨も朝方にはやみ、一行が探検に出発するころには、その雄途を寿ぐかのように雲間から日が差しはじめました。天もここまで味方してくれると、もはや偶然とは思えません。人知の及ばぬ力が働いているのでは...



 唐の詩人王維が友人の元二を送別する折に「渭城の朝雨軽塵を潤し」と詠んだことは有名ですが、季節こそ違え、夜来の雨に木々がしっとりと濡れそぼつ様もなかなか風情があるものです。旧湯を探して山谷に分け入り、危うく迷いかけたくだりは、seisyunさんのブログに詳述されていますが、道に迷いながら、独りそんな風情を味わったりしていました。



 それはさておき、思わぬハプニングに時間を空費した一行は、それでもあきらめ切れぬ旧湯を探検した後、木曽駒冷水を味わい、木祖村の「峠」で腹ごしらえ。午後はまず初冬の水木沢を訪ね、仕込み水の話が聞けるのを楽しみにしていた銘酒「木曽路」の蔵元「湯川酒造店」で空振り。すごすごと木祖村を後にして上松町に向かったのでした。


 時間が押していたので、この日の残る探検箇所は赤沢の「姫淵」に絞り、木曽川を渡って支流の小川沿いに県道上松御岳線を遡上することに。



 ところで、木曽川左岸を下っていると、右手に何やら古ぼけた細い鉄橋が見えてきます。この鉄橋。実は「鬼淵鉄橋」と呼ばれ、平成21年2月6日に経済産業省が選定した「近代化産業遺産群 続33」の中の1つ。わが国最大規模の森林鉄道と言われる「小川森林鉄道」の木曽川架橋のため、大正3年(1914年)に建設されました。工事を担当したのは、創業間もない「横河橋梁製作所」。この社名、ピンと来る方もおられるでしょう。そう、現在の「横河ブリッジ」です。全長93.8メートルのこの橋の建設費は、総延長19.4キロに及ぶ同森林鉄道の総工費の1割近くを占め、いかに難工事だったかがうかがわれます。トラス橋が国内で設計、製作されるようになった時期の大変貴重なものなのだとか。平成8年に隣接して建設された新しい橋の完成に伴い、撤去される運命にありました。ところが、撤去計画を知った住民有志が保存運動に立ち上がり、遂に翌年、町議会はこの計画を撤回、小川上流の小田野橋梁とともに保存されることになりました。



 そんな曰くのある橋だとはつゆ知らず、一行は鬼淵鉄橋を尻目に木曽川を渡り、一路赤沢を目指しました。しばらく行くと、上松技術専門校を過ぎるあたりに、対岸に架かるやはり赤錆びた鉄橋が見えます。これが鬼淵鉄橋とともに近代化産業遺産に選定された「小田野橋梁」です。その先は、今は林道に整備されていますが、かつては赤沢や黒沢沿いの山々から伐り出された木材を国鉄上松駅へと運んだ小川森林鉄道が走っていました。林道は途中で方向を変えますが、森林鉄道の跡は対岸を走る県道からところどころ確認することができます。予定外の山歩きに疲労が出たのか、軽口もめっきり少なくなった車中で、林鉄敷と思しき遺構を眺めては、独り悦に入るのでした。(ヲタクですかね。)



 県道は小川に沿って左岸、右岸、左岸と移りながら続きます。途中には、「小谷狩りの留堰跡」や「まないた岩」、「牛が淵」(小川にも存在するようです)、「五枚修羅」などのチェックポイントがあり、個人的には車を止めて調べたいところですが、涙を飲んでまたの機会に譲ることにして先を急ぎます。



 黒沢を渡る狭い橋の脇に、かつて橋桁を支えていたと思しき橋台が残っていました。ひょっとしたら林鉄の遺構かも。これまた車を降りて調査したい衝動に駆られながらも、疲労の色を浮かべている隊員の手前、グッと堪えて通過。車はなおも進みます。(後編に続く)(aki