ご報告。 | KISHI-YAN

ご報告。

私事ではございますが、3月22日午前6時16分、父・岸田良造が大動脈解離の為、急逝いたしました。享年72歳でした。
生前、父、家族がお世話になりました皆様には謹んで厚く御礼申し上げます。
また、この様な形でのご報告となり深くお詫び申し上げます。

昨日僕の地元、兵庫県尼崎市で家族葬をあげ、滞りなく送り出す事が出来ました。
強い父でした。優しい父でした。

小学生の頃から視力が低下し、その後全盲になり、同じ盲学校に通っていた母と出会い結婚。
ハンディキャップがありながらも、そんなもん関係無いわと言わんばかりの持ち前の意思の強さ、類稀な根性、社会的知識の高さ、そして優しさとユーモアを持って9人の子供を育てあげました。
自慢の親父です。

そして僕たち兄弟姉妹もそんな親の背中を見ながら、両親が全盲な為、小さな頃から皆で助け合い、ご近所様や商店街の皆様のご厚情を賜りながら明るく賑やかに暮らして来ました。
僕はそんな家庭の9人目として生まれました。

両親ともに運動能力が長けており、音楽が好きで父は学生の頃からギターをしていましたし、母はピアノや声楽をしてました。他にも両親の趣味で色んな楽器が家にはあります。また2人ともに歌うことが大好きで、僕も小さい頃からよく歌を歌ってました。
兄、姉たちも音楽が好きで、僕は小さい頃から色んな音楽を聴いて育ちました。子供が多いという家庭の事情もあり、兄や姉は早々に働きに出て一丸となり僕たちを支えてくれました。
そのお陰で末っ子である僕は14歳でドラムと出会い、プロになるという思いを持つことが出来、真っ直ぐと打ち込む事が出来ました。

父は6年前に家の中で事故を起こしてしまい、左半身が思う様に動かなくなりました。その後脳梗塞を患い、一時は寝たきりで、いつ死んでもおかしくない状況でしたが、持ち前の気持ちの強さで回復して行き、3年前から施設に入り、リハビリを経て、ここ2年位は少し立てるなど力強さが戻って来ていました。
最初は精一杯喋っても囁く程度のヴォリュームでゆっくりと休みながらしか話せなかったのが、最近では大好きなカラオケでよく歌っていました。僕がたまに実家に帰ると、母がカラオケを録音したテープを聴かしてくれましたが、元々声の大きい人でしたのでそこまででは無いにしろ、声にハリとヴォリュームがあり、滑舌もよくブレスも変な所で入る事がなく、知らない人が聴くと健康体の人が歌ってる風に聴こえる位まで回復していました。
趣味のギターはなかなか難しい様でしたが。
そんな父に家族は少し安心して暮らす事が出来ました。
多分過酷なリハビリも、家族が少しでも安心出来る様に必死で取り組んだのだと思います。

認知は全く問題なく、たまに会う度に「元気にしとんのか? ちゃんと飯は食べてるんか? 仕事のほうは上手いこと行っとんか?」と、寝たきりの頃から自分の事は自ら語らず、いつもこっちの心配をしてくれていました。

僕以外は配偶者や子宝にも恵まれ皆其々家庭を持っています。
いつしか僕はミュージシャンとして一人前になり、安心出来る様お父さんが死ぬまでに信頼し合える人と一緒になり自分の子供を抱かせる事を大きな目標に掲げて取り組んで来ましたが。。。叶いませんでした

言葉にならない程の悔しさ。

勿論音楽が生業なので安心という事は先ず無いのですが、「としくんなら大丈夫や」と、少しでも安心して欲しかった。

遺体には、「不安にさしたままでごめんな!僕はお父さんの子やからな!お父さんの血が宿ってんねやからな!僕は絶対大丈夫やからな!お父さんは安心しとってや!」と、何度も何度も声を掛けました。
棺には父が大好きだった日本酒と、初めての境地の中ドラムソロにて魂を注ぎ込んだスティックを。

最後は父の兄弟とその配偶者、甥さんたち(従兄弟)、母、僕ら子供9名とその配偶者、孫20名に見送られました。

東京に戻る時、クラシックギターを弾いている父の遺影に手を合わせ、「ほな思い切りやってくるわな!」と伝え、
母には「こんな風になってもうたけど周りには2人に育てて貰った強い皆が居るから安心してな。泣きたい時は泣きたいだけ泣いたらええからな、ほな思い切りやってくるわ!」と、勢いよく家を出ました。

いつもお世話になっている皆様、これからも岸田家を宜しくお願い申し上げます。

応援して頂いてる皆様並びに音楽関係者の皆様、いつもお世話になっております。
まだまだ未熟ではございますが、これからもDrummerのKISHI-YANをどうぞ宜しくお願い申し上げます。


岸田年雅